資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(26)再解釈 Ⅰ版本文 パラグラフ6-3 井上・崎山両氏の第2論文に思うこと

井上・崎山両氏の第2論文に思うこと

 

先に触れた、井上・崎山両氏の一連の論文に関して思うことがある。両氏の論文は本当にすごいのだ。新たな論点を提示し、その論点で徹底的に解釈していく姿勢は爽快感さえ覚える。だが、どうしてもなじめないものが存在するのだ。

特に第2論文に関してだ。

両氏は「1 クォーターの小麦」が「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」で表現される事態に関して次のように述べている。

 

「まず初版であるが、第二版・フランス語版と比べて表現に論理上の難点がある。なぜなら、『それ』=『1 クォーターの小麦の交換価値』は種々様々の交換価値としてある諸表現様式とは区別されなければならない、と言うのであるが、ここで例にあげられている種々の等置関係=諸表現形態から解るように、交換価値自体がある表現様式なのであるから、表現様式である交換価値がこれら種々の表現様式から区別されるものだというのは論理的に突き詰めが足らない言い方になってしまうからである。もちろんここでは、交換価値について『内的な、内在的な交換価値というものは、一つの形容矛盾であるように見える』として、交換価値なるものが単なる表現様式・現象形態としてあるのではなく、ある内容=内実としてある可能性をも残した上で上記の表現があるわけだが、にもかかわらず、表現様式から区別される表現様式、という叙述になってしまうことへの論理的な歯止めがなされてはいないのである。」

(商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(2) 井上康・崎山政毅 立命館文学633号2013 P.103)

 

もちろん、両氏の主張はよくわかる。おっしゃる通り2版やフランス語版の叙述の方が、話の流れはすっきりする。「表現様式から区別される表現様式」というのも問題があると思う。しかし、それは我々が2版やフランス語版の内容を知っているからである。この論文の意図が初版、2版、フランス語版を比較して「商品語」によって描き出されるものを人間の言葉によって描き出されるものに対して浮き彫りにするというものだろうと思う。

そうではあるが、初版が出版された時点では、当然2版やフランス語版は存在していないのであり、マルクスはこの叙述の仕方で初版を出版したのである。すると、なぜマルクスはその叙述で問題がないと考えたのかが問題になるのだ。

それで、私はある表現様式が他の表現様式と区別されるための構造として、「交換関係の海」というどう考えてもマルクスらしからぬきわめて形式的な解釈をすることになったのだ。

両先生なら、もっと内実を伴った解釈ができるであろうに・・・。

やってもらえませんかね・・・。