資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(29)Ⅰ版本文 パラグラフ8-2 井上・崎山両氏の第2論文に思うこと(その2)

この謎の具体例パラグラフに関して、井上・崎山両先生はおおよそ次のような解釈を行っている。

① ①文の「簡単な幾何学的例がこのことを説明する。」の「このこと(diess)」はこれまでの内容、とりわけ、直前のパラグラフ7で述べられたことをさしている。

② この幾何学上の一例は適切なものとは到底言えない。逆にかえって理解を妨げるものでしかない。

  1.すべての直線図形の面積を定め、比較することが問題なっており、直前のパラグラフ7というより、パラグラフ5・6との対照となっている。

2.二商品の等置・等式という純粋に社会的な属性におけるものに対して図形の面積という自然的属性における等式が例示として提示されている。

3.価値という量的規定性を内的契機として含まないものに、面積という量的規定性を内的契機とするものが対照として措かれる。

4.価値にせよ、価値実体である商品に表わされた抽象的人間労働にせよ、きわめて抽象性の度合が高いものに対して、抽象性の度合がまったく比較することができないほど低い三角形やその面積の式が対照される。

③ .第④文とパラグラフ7最後の第⑥文との間に齟齬がある。

  ④Ebenso sind die Tauschwertheder Waaren zu reduciren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehroder Minder darstellen.

   同様に、諸商品の諸交換価値はある共通のものに還元されるのであるが、その諸交換価値がその共通なものの「多い、少ない」を表しているのである。

  

   ⑥Jedes der beiden, soweit es Tauschwerth, muss also, unabhängig von dem  andern, auf diess Dritte reducirbar sein.

   したがって両者の各々は、交換価値である限り、他方のものから独立にこの第三のものに還元可能でなければならない

 

④ アードルフ・ヴァーグナーの『一般的または理論的経済学 第一部 原論』(改訂増補第二版、1879 年)に対する「批判的傍注」(1879 年から 1880 年 11 月までに執筆)からすると、パラグラフ④(実際にはパラグラフ8…引用者)の「共通なもの」とは価値ということにならざるを得ない。だとすると、「還元する〔reduciren〕」という言葉の不適切さと共に、先に述べた難点、つまりそれにつづく「共通なもの」=価値の「あるいはより多くを、あるいはより少なくを」諸交換価値は表わしているという、価値自体が増減して自らの大きさを定立するかのような言明になってしまうという難点を抱えることになる。

パラグラフ③(実際にはパラグラフ7…引用者)の「第三のもの」が価値であることはありえず、価値実体たる労働であることは明らかであり、このパラグラフ③からの文章上のつながりから言っても、「第三のもの」を価値だとするのはまったく不自然である。このパラグラフ③とのつながりの不自然さは、第二版やフランス語版では「第三のもの」も「共通なもの」もすべて価値だとすれば論理の上では消失する。だがそうすると、今度はパラグラフ③の文章がまったく不自然なものになってしまう。なぜならば「共通なもの」と「第三のもの」とわざわざ表現を変えているからである。更に、「第三のもの」についての叙述が初版と第二版とでは同じであることからしても、またその内容からしても一層大きな不自然さが生まれることになる。ここには「混乱」があるとしか言いようがない。

 

⑤ このパラグラフ8は「このように、種々様々な交換関係を示す諸等式において、各等式の両項つまり二つの異種の労働生産物である二商品が、同じ量の第三のものに還元されることによってこれらの商品は同じ大きさの共通なあるものと認められるのであり、かくして双方の交換価値はこの同じ大きさの共通なあるものを表わすことになる。そしてこの共通なものの大きさはかの第三のものの量の多少によることになるのである。」とされるべきであった。

(商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(2) 井上康・崎山政毅 立命館文学633号2013 PP.111-114)

 

両先生のおっしゃる通りである。パラグラフ7とパラグラフ8は話が合わない。具体例としてパラグラフ7を説明していないのである。そして、両先生のよう内容を書きなおせば話はスッキリする。

しかし、ただひとつ問題が残るのだ。2版、フランス語版という書き換えチャンスがあったにもかかわらず、なぜマルクスはこのパラグラフをそのままにしたのかという点だ。変更しなかったということは、マルクスはこれが具体例として成り立っていると考えていたということだ。したがって、これが具体例として成り立つような解釈が必要とされるはずだ。両先生のように、ここに「混乱」を認め、こうあるべきだと書き直しても、このパラグラフの存在理由は分からないままなのだ。