資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(27) 再解釈 Ⅰ版本文 パラグラフ7

①Nehmen wir ferner zwei Waaren, z. B. Weizen und Eisen. ②Welches

immer ihr Austauschverhältniss, es ist stets darstellbar in einer Gleichung,

worin ein gegebenes Quantum Weizen irgend einem Quantum Eisen gleich

gesetzt wird, z. B. 1 Quarter Weizen = a Ctr. Eisen. ③Was besagt

diese Gleichung? ④Dass derselbe Werth in zwei verschiednen

Dingen, in 1 Qrtr. Weizen und ebenfalls in a Ctr. Eisen existirt. ⑤Beide

sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine, noch

das andere ist. ⑥Jedes der beiden, soweit es Tauschwerth, muss also, un-

abhängig von dem andern, auf diess Dritte reducirbar sein.

 

①文について

「さらに二つの商品、例えば小麦と鉄をとってみよう。」

 fernerは「さらに」というよりは、「次に」とか「目を転じて」くらいの意味合いだろうか。パラグラフ6でわれわれは「一対多」の交換関係から、その関係の多数性に基づいた「交換関係の海」の構造を読み取った。そこでの交換は、「ハブ」と「枝」の交換関係であった。しかし、ここでは任意の商品の関係は「一対一」になり、「枝」と「枝」の交換関係になる。ここからの展開が重要。

 

②文について

「その交換関係がどのようなものであれ、それ(その交換関係)は、常にひとつの等式で、ある与えられた量の小麦がある量の鉄と等置されるような、例えば1クウォーターの小麦=aツェントナーの鉄のような等式で記述されうる。」

二つの商品が交換関係の中に置かれる。そしてその関係の中に置かれたとたんにお互いに等しいものとされる。交換関係の成立と商品の等しさは同時なのである。商品が交換されたということから、それらが等しかったということが確認される、ということであるだろう。この等しさは交換が成立する要件といえるが、これは原因結果の関係ではなく、交換関係の内実はこの等しさである、ということだろ。パラグラフ6も交換の話からスタートしていたではないか。

言い方をかえれば、「交換する」と「二つの商品が等しい」は一つの事態の異なる表現なのだと思う。

どちらにしろ、マルクスの展開からすると「等しいから交換される」という事態では決してないだろう。

 

③文について

「この等式は何を意味しているのか」

④文への移行のためのパラグラフ。

 

④文について

「同じ価値が、二つの異なるもののうちに、すなわち1クウォーターの小麦のうちに、同様にまたaツェントナーの鉄のうちに存在していること、これを意味している。」

交換されたのであるから、二つの商品の内部に「同じ価値」が存在している。マルクスの叙述はあっさりしているが、これは重大な事柄を含んでいる。交換関係の等式が示す「等しさ」の内実がいきなり示されているからだ。

それにしてもこの「価値」って何だろうか。

交換が成立してしまうと、「二つの異なるもの=商品」は「二つの異なるもの」ではなく二つの「同じ価値をもつもの」となる。交換関係において「同じ価値」の存在が生じるといえる。交換以前には「同じ価値」は存在していなかったのであるから、この事態は交換に特有の事態であるといえる。しかも「同じ価値」であって「同じ大きさの価値」とも「同じ内容の価値」などと記述されているわけではない。つまり、価値に関しては無規定なのだ。そして、この無規定的価値の規定を可能にする構造が次の⑤文で語られる。

 ※2版では「同じ大きさを持つある共通のもの」という表現になっており(Das Kapital 2auflage S.11)、「大きさ規定」を含めている。しかし、初版ではいまだ無規定的であるので、この無規定性を前提にして話を進めざるを得ない。

 

⑤文について

「したがって両者はある第三のものに等しいのだが、その第三のものはそれ自体としては、両者の一方でも、また他方でもないのである。」

「したがって」という語がなぜこの記述の流れで使用可能なのか。パラグラフ6で確認した「交換関係の海」=「交換関係の構造」が存在しているからである。

そこで確認したことは、

①同じ交換系においてのみ、任意の二つの商品の「枝同士の直接的関係」は可能である。

②任意の二つの商品が「枝同士の直接的関係」である場合、両者は共通のハブを持つ。

③隣接する二つの商品が同時にハブであることはない。

という3点であった。

いまパラグラフ7では、「二つの商品の交換」を問題としているので、②より両者は「交換関係の構造」から共通のハブを持つことになり、両者から独立した「第三のもの」が必然的になる。

 

⑥文について

「したがって両者の各々は、交換価値である限り、他方のもから独立にこの第三のものに還元可能でなければならない。」

「両者の各々」(「1クウォーターの小麦」と「aツェントナーの鉄」)はそれぞれが他方のものとは関係なしに、共通のハブに関係している。そしてハブと枝の関係も交換関係であるので、複数の枝の持つ交換価値を表すものとして特別な在り方を示すハブが現れていることになる。そしてこのハブが「第三のもの」であった。

⑤文で示した「同じ価値」は他方のものから与えられたわけではない。それは交換が成立したとたんに両者の中に生じ、そして同時に「第三のもの」との関係も生じているのである。他方を介することなしに枝である商品はその交換価値を表現するものへと結びつくのである。

ここでの「還元可能(reducirbar)」は「それが由来するところのものを開き示すことが可能な」という意味となるだろう。「第三のもの」が単数形であることも、交換関係に置かれた枝は共通のハブを持つことに基づくのである。