資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

ネタとベタ  開示する社会

テレビの「視聴者投稿動画」が苦手だ。特に家屋が激しく燃える火事現場の動画を見ると「ぞわぞわ」する。炎の中に焼け焦げていく人間の姿を想像してしまうということもあるが、その動画が「ニュースネタ」として撮影されたということに対する「ぞわぞわ」感が強い。

様々なものが撮影され、情報として開示されていく。スマホの普及率を考えると、私たちはいつでも自分が監視対象になりうる社会に生活しているのだと強く感じる。

フーコーパノプティコン(panopticon)やマシーセンのシノプティコン(synopticon)を取り上げるまでもなく、世間は十分に「監視社会」なのだ。しかもそれはオーウェルビッグブラザーによる支配でもない。「ビッグブラザーはすべてを見ている」とヘリコプターから常に言われているわけではないのだ。スマホの向こう側に無数の目が無言で私たちを取り巻き、何かをきっかけに目を開くのだ。

さきほど「ニュースネタ」といったが、ある事態が「ネタ」と認められれば目は開く。しかしネタかどうかの基準は判然としない。

以前、すし屋で商品をペロペロする動画がニュースになったが、あの動画を撮影した子どもにとっては、「僕はこんなことできるんだ。おもしろいでしょ」くらいのノリだったはずだ。そしてその動画を信頼できる少数の仲間と共有する。それはネタであり、仲間うちで情報が開示されるのだ。その仲間はさらに信頼できる者と共有する。

共有の輪はいっきに広がり、いずれそれをネタではなくベタだと感じる人々の目に触れる。そして「この子はなんてことをやってるんだ!」となる。すると、この「なんてことをやってるんだ!」がネタとなり、一気に拡散する。そして当人の個人情報もネタとなり、公開される。

昨日のネタは今日のベタ、今日のベタは明日のネタ。

ネタとベタの境界は浮動する。

スマホの背後の無数の目を意識すれば、人間はできるだけネタにならないように行動するだろう。誰によるものでもない「統制と管理」が成立するのだろう。

ネタとベタの世界には、一般的な情報公開の原則はない。ネタとして認定されればすべてが開示される世界。

私たちはすごい世界に生きているのだ。