資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(34)Ⅰ版本文 パラグラフ11-1

①Als Gebrauchsgegenstände oder Güter sind die Waaren körperlich

verschiedne Dinge. ②Ihr Werthsein bildet dagegen ihre Einheit.

③Diese Einheit entspringt nicht aus der Natur, sondern aus der Gesellschaft.

④Die gemeinsame gesellschaftliche Substanz, die sich in

verschiednen Gebrauchswerthen nur verschieden darstellt, ist — die

Arbeit.

 

①文について

「使用対象または財として、諸商品は物体的に異なる事物である。」

 

諸商品はそれぞれ物体的に異なる。使用対象であるということは使用価値という側面でとらえているのであるのだから当然だろう。

 

②文について

「これに対して、諸商品の価値存在(諸商品が価値であるということ)はその(諸商品の)統一性(単位)を形成する。」

 

Werth sein → Werthseinとして読む。

1867年出版の初版本PDFでは、Werthとseinの間が微妙に離れており、別単語のようにみえるが、文法的に意味が分からなくなるので、Werthseinとするのが正しいのだろう。新MEGAでもWerthseinとなっているようだ。Ihrとihreはどちらも①文のdie Waarenを指している。

 

諸商品の価値存在(ここでの価値も交換価値?)が諸商品の「統一性をなしている」という時の「統一性」とは何だろうか。諸商品の自然的属性を度外視して交換可能とするような「単位」だろうか。Einheitには「統一」という意味以外に「単位」という意味もあるので、「単位」と解釈することも不可能ではない。「単位」と解釈すると、パラグラフ6で見た、1クウォーターの小麦をx量の靴墨、y量の絹、z量の金に交換することで、1クウォーターの小麦が特別な地位を持つという展開がイメージしやすくなるのである。x量の靴墨、y量の絹、z量の金が交換可能なのは、それらが1クウォーター小麦分の靴墨であり、絹であり、金だからである。

 

③文について

「この統一性は自然からではなく社会から生じる。」

 

諸商品の「価値存在」は商品の自然的属性の捨象、使用価値の捨象において現れるのだから、「統一性(単位)」が自然から生じることはない。また、諸商品の交換において「交換価値」が現れるのであるから、「統一性(単位)」をなしている「価値存在」は交換という社会関係から生じていることになる。

 

④文について

「様々な使用価値において様々な仕方で表現される(自らを表す)だけである共通の社会的実体、それは『労働』である。」

 

様々な使用価値とは先に出てきた「諸商品」であろう。「諸商品」に「共通の社会的実体」が現れている。この「共通の社会的実体」は「労働」であることが提示されるが、論証はない。この提示が可能であるためには、諸商品が労働生産物であり、かつ同時にそこに労働が結実していることが示されなければならない。論理的には、商品が労働生産物であることと、そこに(Ⅱ版以降で使用される)「抽象的人間労働」が存在することは別ものであるだろう。ここでの主張は論証なしの言明に過ぎない。

 

このパラグラフで商品→価値→社会的実体→労働という展開がなされているのだが、この展開の必然性の保証は明確なものではないと思うのだが、どうだろうか。