資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(24)再解釈 Ⅰ版本文 パラグラフ6-1

再解釈 Ⅰ版本文 パラグラフ6-1

①Eine einzelne Waare, ein Quarter Weizen z. B. tauscht sich in den

verschiedensten Proportionen mit andern Artikeln aus. ②Dennoch

bleibt sein Tauschwerth unverändert, ob in x Stiefelwichse, y Seide,

z Gold u. s. w. ausgedrückt. ③Er muss also von diesen seinen verschiede-

nen Ausdrucksweisen unterscheidbar sein.

 

①、②文まとめて

①文

「個々の商品、例えば1クウォーターの小麦は様々な比率でほかの商品と交換される。」

②文

「しかし、小麦の交換価値は、x量の靴墨で、y量の絹で、z量の金で表現されようと変わらぬままである。」

「様々な比率で」交換されるほかの商品とは②文にでてくる「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」のことである。

だから、

1クウォーターの小麦 →交換← x量の靴墨

1クウォーターの小麦 →交換← y量の絹

1クウォーターの小麦 →交換← z量の金

という交換が起きていることになる。

 

 

①文で示した3つの交換において左辺は常に1クウォーターの小麦なので同じであるということ。

「小麦の交換価値」が「x量靴墨、y量絹、z量金」で表現されるという言い方に注目。

ここでは商品の交換が、「小麦の交換価値」がx量靴墨、y量絹、z量金などをとおした表現と捉えられている。

 

③文について

「したがって、それ(1クウォーターの小麦の交換価値)はこの、それ(1クウォーターの小麦の交換価値)の様々な表現様式から区別可能でなければならない。」

ここまでのところで、マルクスは個々の商品が交換関係の中で同じ大きさを持つということは、一言も書いていない。すると、ここでマルクスが「1クウォーターの小麦の交換価値」は「x量靴墨、y量絹、z量金」という様々な表現様式から区別可能だ、といったときに、わたしたちは、「交換価値の大きさ」とか「同じ」とかを解釈の中に含めることはできないということになる。

別な言い方をすれば、マルクスはここで交換関係内部での商品同士の関係の仕方しか語っていないといえる。

この例の場合は、「1クウォーターの小麦の交換価値」が「x量の靴墨で、y量の絹で、z量の金」に対して特別な位置にたっている。「1クウォーターの小麦の交換価値」は他の諸表現様式とはあり方が違うのだ。

パラグラフ5で見たように、交換価値は「量的な関係」であり、そこで示された解釈は、例えば「1・リンゴ」や「2・ミカン」で表現されるような大きさというものであった。ここの例でいえば、「x・靴墨」ということになる。交換が成立したのであるから、「1・小麦」の交換価値は「x・靴墨」であらわせる。「y量の絹」、「z量の金」に関しても同様のことが言える。これは、「1クウォーターの小麦の交換価値」が「x量の靴墨、y量の絹で、z量の金」というそれぞれ異なる様々な表現様式に対する「ただ一つのもの」として存在しているということになる。「多様なもの」に対する「ただ一つのもの」として「1クウォーターの小麦の交換価値」は区別されなければならないわけである。