資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(21)Ⅰ版本文 パラグラフ6

Ⅰ版本文 パラグラフ6

①Eine einzelne Waare, ein Quarter Weizen z. B. tauscht sich in den

verschiedensten Proportionen mit andern Artikeln aus. ②Dennoch

bleibt sein Tauschwerth unverändert, ob in x Stiefelwichse, y Seide,

z Gold u. s. w. ausgedrückt. ③Er muss also von diesen seinen verschiede-

nen Ausdrucksweisen unterscheidbar sein.

 

①文について

「個々の商品、例えば1クウォーターの小麦は様々な比率でほかの商品と交換される。」

「様々な比率で」交換されるほかの商品とは②文にでてくる「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」のことである。

だから、

1クウォーターの小麦 →交換← x量の靴墨

1クウォーターの小麦 →交換← y量の絹

1クウォーターの小麦 →交換← z量の金

みたいなことが起きているといえる。

 

②文について

「しかし、小麦の交換価値は、x量の靴墨で、y量の絹で、z量の金で表現されようと変わらぬままである。」

①文で示した3つの交換において左辺は常に1クウォーターの小麦なので同じであるということ。

「小麦の交換価値」が靴墨や絹や金で「表現されている」という言い方に注目。小麦が持っている交換価値は表現様式が異なってもそのまんまいうことになるわけです。

 

③文について

「したがって、それ(1クウォーターの小麦の交換価値)はこの、それ(1クウォーターの小麦の交換価値)の様々な表現様式から区別可能でなければならない。」

この例の場合は、「1クウォーターの小麦の交換価値」が「x量の靴墨で、y量の絹で、z量の金」に対して特別な位置にたっている。「1クウォーターの小麦の交換価値」は他の諸表現様式とはあり方が違うのだ。

これを例えば「x量の靴墨」に焦点を当てて考えると話が見えてくるような気がする。パラグラフ5で見たように、交換価値は「量的な関係」であり、そこで示された解釈は、例えば「1・リンゴ」や「2・ミカン」で表現されるような大きさというものであった。ここの例でいえば、「x・靴墨」ということになる。交換が成立したのであるから、「1・小麦」は「x・靴墨」と同じ大きさのものである。「y量の絹」、「z量の金」に関しても同様のことが言える。これは、「x量の靴墨で、y量の絹で、z量の金」というそれぞれ異なる様々な表現様式に対して「1クウォーターの小麦の交換価値」がそれらと同じ大きさの「ただ一つのもの」として存在しているということになる。「多様なもの」に対する「ただ一つのもの」として「1クウォーターの小麦の交換価値」は区別されなければならないわけである。

 

ただし、ここではそれぞれの商品は同等であり、それぞれが「1クウォーターの小麦の交換価値」の役割をはたすことができる。このパラグラフが「例えば」ではじまって「1クウォーターの小麦の交換価値」をもちだしたのであるから、これが「x量の靴墨」で始まってもよかったはずだ。他の諸表現様式(x量の靴墨、y量の絹、z量の金)が特別な位置にたてるわけだ。

とすると、ここで多数の交換関係が想定されていることになる。