資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

私は彼を信用しない! ベーム・バヴェルクの件(10)

ベーム・バヴェルクの価値概念理解を探るべく、さらに読んでみた。

あった。26ページに次のように書いてある。

der Wert wurde uns als das Gemeinsame erklärt, „was sich im Austauschverhältnis der Waren darstellt“ (I. 13), in der Form und mit dem Nachdruck eines zwingenden, keine Ausnahme zulassenden Schlusses war uns gesagt worden, daß die Gleichstellung zweier Waren im Tausche besagt, daß „ein Gemeinsames von derselben Größe“ in ihnen existiert, auf welches jede der beiden „reduzierbar sein muß“ (Zum Abschluß des Marxschen Systems  S.26)

訳すと

価値は、「商品の交換関係において表現される(1巻13ページ)」共通のものとして説明された。二つの商品の交換における等置は、「同じ大きさをもつ共通のものがそれら(二つの商品)のなかに存在していて、両者の各々はこの共通のものに還元可能でなければならない」ということを意味するものだと、例外を認めない説得力のある論法の形式と強い調子で語られた。

となる。

これには困った。「それら(ihnen)」という代名詞が「二つの商品(zweier Waren)」を受け、welchesという関係代名詞が「共通のもの(ein Gemeinsames)」を受けるのは間違いないだろう。だが、「両者(der beiden)」は何を指すのだろう? 「両者」なのだから「二つの商品」だろうか。でも、商品が「共通のもの」に「還元可能」なんて書いていなかったし・・・。ましてや二つの商品にそれぞれに存在する「共通のもの」ではない。「共通のもの」が「共通のもの」に還元可能となるからだ。

なぜこのようなわけの分からないことが起きるのか? 理由は簡単である。ベーム・バヴェルクがテキストを切り張りして引用しているからである。もとになっているのは赤文字パラグラフである。そこには次のように書かれていた。

Jedes der beiden, soweit es Tauschwerth, muß also auf dies dritte reduzierbar sein.

「したがって、両者の各々は、それが交換価値である限り、第三のものへ還元可能でなければならない。」

「両者の各々」は直後の「それが交換価値である限り」によって、交換価値であることがわかり、それゆえに文脈上「共通のもの」であることが保証されるのである。しかも「第三のものへ還元可能でなければならない」のである。決して「共通のもの」に還元されるのではない。

では、なぜベーム・バヴェルクはこのような切り張りを行ったのか? 実はこの26ページの引用には続きがあり、そこには「同一量の労働を具現化する諸商品は、長期にわたって原則上、相互に交換されなければならない」と書かれているのだ。ベーム・バヴェルクの交換に関する論点は「価値の不均衡があるので交換が生じる」というものなので、マルクスの見解は「同一量の労働を具現化する(=同一価値の)商品は交互に交換されなければならない」というほうが都合が良いのだ。したがって、彼はテキストの内容に変更を加え、商品に「同じ大きさをもつ共通のもの」が存在し、そこに商品そのものが「還元される」という展開を、マルクスが「例外を認めない説得力のある論法の形式と強い調子」で語っていると書いたのだ。

弁証法的な」方法で価値論を展開しているとあれほど言っていたのに、自分に都合のいい書き換えの時は「例外を認めない説得力のある論法の形式と強い調子」の議論になるのだ。

まずい、これは本当にまずい。パラグラフとばしもひどかったが、これはさらにひどい。ベーム・バヴェルクは本当に学者だったのだろうか? 自分の主張を押し通すためとはいえ、これはあまりにひどい。この100年以上の間彼が引用され続けてきた理由が分からない。

 

私は彼を信用しない。彼の主張がどうだというのではない。彼という人間が信じられないのだ。

これから先、二度とベーム・バヴェルクを読むことはないだろう。そして、彼の論点を利用して議論を展開している学術論文に関しては、ベーム・バヴェルクの姿勢を容認していることになるので、学術的な価値はないとみなし、読まないだろう。

長い寄り道になってしまったが、本来の初版本文解釈にもどろう。