資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

ベーム・バヴェルクの件(5)資本論2版解釈

赤文字パラグラフ

„①Nehmen wir ferner zwei Warren, z. B. Weizen und Eisen. ②Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgend einem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z. B. 1 Quarter Weizen = a Zentner Eisen. ③Was besagt diese Gleichung? ④Daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiedenen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Zentner Eisen. ⑤Beide sind also gleich einem dritten, das an und für sich weder das eine noch das andere ist. ⑥Jedes der beiden, soweit es Tauschwerth, muß also auf dies dritte reduzierbar sein“.

 

①文について(ferner:さらに)はベーム・バヴェルクの引用から抜け落ちていたので補った。このfernerが存在していると、このパラグラフに論述上つながる別のパラグラフの存在が想定されるのでわざとはずしたのでは、と疑っているのだが・・・。この人ならやりかねない。)

「さらに二つの商品、例えば小麦と鉄をとってみよう。」

fernerは「さらに」というよりは、「次に」とか「目を転じて」くらいの意味合いだろうか。前の段落が「一対多」について述べ、その関係の在り方を示したので、「今度は任意の二つの商品の関係を考えましょう。」というつもりなのだろう。ここで、任意の商品の関係は「一対一」になる。ここからの展開が重要。

 

②文について

「その交換関係がどのようなものであれ、それ(その交換関係)は、常にひとつの等式で、ある与えられた量の小麦がある量の鉄と等置されるような、例えば1クウォーターの小麦=aツェントナーの鉄のような等式で記述されうる。」

二つの商品が交換関係の中に置かれる。そしてその関係の中に置かれたとたんにお互いに等しいものとされる。交換関係の成立と商品の等しさは同時なのである。商品が交換されたということから、それらが等しかったということが確認される、ということだろう。

この等しさは交換が成立する要件といえるが、これは原因結果の関係ではなく、交換と等しさが根底で支えあっているというイメージだろうか。あるいは、交換関係の内実はこの等しさである、ということだろうか。

どちらにしろ、マルクスの展開からすると「等しいから交換される」という因果関係で交換をとらえるのはマルクスの叙述にあわない解釈だと思う。

 

③文について

「この等式は何を意味しているのか」

  ④文への移行のつなぎ。

 

④文について(③文をうけて)

「同じ大きさをもつある共通なものが、二つの異なる物のうちに、すなわち1クウォーターの小麦のうちに、同様にまたaツェントナーの鉄のうちに存在していること、これを意味している。」

「共通なもの」であることが、二つの商品の関係性を保証し、「同じ大きさ」が両者の等しさを保証する。等式の意味するところとはこういうことか・・・。

マルクスのことばによると、「同じ大きさをもつある共通なもの」ein Gemeinsames von derselben Größeが、異なる商品小麦と鉄の中に存在している。あるものが、異なる存在のうちに別々にある、という事態が生じている。

⑤文との関係で言えば、ここでの「共通な物」をもたらすものが「第三のもの」と呼ばれるはずである。

⑤文について

「したがって両者はある第三のものに等しいのだが、その第三のものはそれ自体としては、両者の一方でも、また他方でもないのである。」

「したがって」という語は、なぜこの記述の流れで使用可能なのか。

マルクスがこの「したがって」を使ったのは、「共通」という概念の一般的な使用法に依拠しているからでもあるが、それとは別の理由があるだろう。マルクスはこの記述が当然成立すると考えているのだと思う。一般に私たちが「AとBに共通な(共通する)もの」を考える際に、「共通なもの」はA、Bから取り出されて、別のものとして扱われるのだ。しかもそれはA、B双方に存在しているにも関わらず、ein Gemeinsames(あるひとつの共通な物)なのである。

⑤文は図式化すればこういうものか。

1クウォーターの小麦がaツェントナーの鉄と関係を持つ(交換関係に入る)という事態は、一対一関係であるので、1クウォーターの小麦とaツェントナーの鉄以外のものは見えていない。しかし、省略されたパラグラフで示された関係の枠組みからすれば、諸表現様式に対する「ただ一つのもの」の関係が生じていることになる。

1クウォーターの小麦とaツェントナーのそれぞれが持つ「同じ大きさの共通のもの」は両者の等しさの表れであるが、同時にそれは小麦や鉄の規定からは決して生じないものである。「第三のもの」と、これらの「共通のもの」との関係は、省略されたパラグラフの「ただ一つのもの」と諸表現様式の関係を基盤として成立するのである。

 

⑥の文

「両者の各々は、交換価値である限り、この第三のものにreduzierbar(還元可能)でなければならない。」

「両者の各々」(「1クウォーターの小麦」と「aツェントナーの鉄」)はそれぞれが交換価値としては「第三のもの」に還元できる。④文でしめした「同じ大きさをもつ共通なもの」は他方のものから与えられたわけではない。それは交換が成立したとたんに両者の中に生じたのである。したがって、交換価値が生じる限りで、それは「第三のもの」への還元が可能なのである。

そしてここからすると、ここでの「還元可能(reducirbar)」は「それが由来するところのものを開き示すことが可能な」という意味だろう。

 

直前のパラグラフが省略されたことで、この赤文字パラグラフの「第三のもの」はなんの脈絡もなく突然現れ出てくることになる。マルクスの叙述の論理構造が壊れてしまうのだ。ベーム・バヴェルクはこの省略を意識的にやっていると思う。赤文字パラグラフの最初にあった「さらに(ferner)」の省略から、そう思う。これは意識的に前パラグラフの存在を隠している、としか思えない。