資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(33)Ⅰ版本文 パラグラフ10

①Unabhängig von ihrem Austauschverhältniss oder von der Form,

worin sie als Tausch-Werthe erscheinen, sind die Waaren daher

zunächst als Werthe schlechthin zu betrachten 9).

    ②9) Wenn wir künftig das Wort „Werth“ ohne weitere Bestimmung brau-

            chen, so handelt es sich immer vom Tauschwerth.

 

①文について

「したがって商品は、その(=商品の)交換関係やそれ(=商品)が交換-価値として現れる形式にかかわりなく、まず第一に価値とみなされる。」

 

商品は交換関係、交換価値としての現れ方に関わらず価値である。

これは、パラグラフ9の3文目③Dem Tauschwerth nach betrachtet ist nämlich eine Waare grade so gut als jede andre, wenn sie nur in richtiger Proportion vorhanden ist. 「交換価値という側面からみれば、ある商品が正しい割合で存在しさえすれば、他の商品とちょうど同じだからである。」を直接受けており、ihrem、sieはどちらも「商品」を指す。①文は「商品は価値である」という内容であり、文脈的には商品の交換は価値の交換であるということを意味している。

 

②文(マルクスによる注)について

「今後、我々が『価値』という語を、より以上の規定をすることなしに使用する場合、それは常に交換価値のことを意味している。」

 

これはマルクス自身による本文への注である。これからすると、少なくとも①文最後の「価値」は「交換価値」を意味する。

すると①文は、交換関係において商品の交換は「交換価値」の交換である、と言っていることになる。したがって、ここでの「価値」を交換価値以外のものとして解釈することは誤りであるということになる。

「価値」という概念をどう捉えるかは重要な問題だと思う。井上・崎山論文では、パラグラフ7の③Was besagt diese Gleichung? ④Dass derselbe Werth in zwei verschiednen Dingen, in 1 Qrtr. Weizen und ebenfalls in a Ctr. Eisen existirt. を解釈する際に、次のように述べられていた。

「初版の『同じ価値』、フランス語版の『共通なあるもの』には等式に即した大きさあるいは量の規定が既に含みこまれている。だが、ある等式がいかなる属性におけるものであるのかということと、その大きさもしくは量の規定との間には概念上の厳然たる区別がある。ただ体積や質量などの自然的属性においては、量的規定性がその概念の契機として内在する。これに対して、いま問題にしている価値には、量の規定性が内的な契機としては存在しない。だからこそ、異種の二商品の等置関係においてはまず何よりもそれがいかなる属性におけるものであるのかが、その大きさもしくは量的規定性を規定するまえに概念的に確定されなければならない。価値には量的規定性が内在しないので、まず等式が社会的属性としての価値におけるものであることを明らかにし、その上でその大きさもしくは量的規定性を問題にしなければならないのである。」(商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(2) 井上康・崎山政毅 立命館文学633号2013 PP.106-107)

この解釈の前提になっている枠組みは

①異なる事物に存在する「同じ価値」、「共通なもの」→量の規定が含まれる

②両者が由来する「価値」は社会的属性をもつ

③この価値の実体は労働である

というものだろう。

ただ、問題なのは初版がこの枠組みからずれているのではないかという点である。換言すれば初版は別の枠組みで動いているのではないかということである。初版の論理展開がどのようなものであるのかが問題となるのである。

井上・崎山論文では

マルクスはまず、パラグラフ⑥《われわれのパラグラフ番号ではパラグラフ10-引用者》で、諸商品を交換価値・価値形態からは独立に諸価値として考察すべきだと言う。価値が前提されてしまっていること、あるいは仮言的に措かれていることがここでもはっきりと出ている。だが、これまでも述べてきたように論理的な筋道は明確であり、価値の内容はどういうものであるのかが追究されることになる。こうしてパラグラフ⑦で、諸商品は価値において統一性をなすと述べられ、それを可能にしている根拠・内実として、『労働』が導出される。」(商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(2) 井上康・崎山政毅 立命館文学633号2013 P.118)と述べられており、ここでの「価値」は交換価値と異なる物として解釈されており、マルクス自身の注が無視されていることになる。

商品が交換価値として理解されるかされないかは大きな問題をはらんでくるとおもわれるのだが、どうだろうか。