資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(35)Ⅰ版本文 パラグラフ12

再び長く沈黙してしまった。理由は前回と同じく入院のためである。ただし今回は別の病気も併発して、その後遺症の痛みに苦労している。こうしてキーボードを打つのにもひと苦労といったところだ。

どこまで読めるか分からなくなってきたようであるが、がんばってみようと思う。

 

(35)Ⅰ版本文 パラグラフ12

 

①Als Werthe sind die Waaren nichts als krystallisirte Arbeit.

②Die Masseinheit der Arbeit selbst ist die einfache Durchschnittsarbeit, deren Charakter zwar in verschiednen Ländern und Kulturepochen wechselt, aber in einer vorhandnen Gesellschaft gegeben ist.

③Komplicirtere Arbeit gilt nur als potenzirte oder vielmehr multiplicirte einfache Arbeit, so dass z. B. ein kleineres Quantum komplicirter Arbeit gleich einem grösseren Quantum einfacher Arbeit.

④Wie diese Reduktion geregelt wird, ist hier gleichgültig.

⑤Dass sie beständig vorgeht, zeigt die Erfahrung.

⑥Eine Waare mag das Produkt der komplicirtesten Arbeit sein.

⑦Ihr Werth setzt sie dem Produkt einfacher Arbeit gleich und stellt daher selbst nur ein bestimmtes Quantum einfacher Arbeit dar.

 

①文について

価値として商品は結晶化した労働にほかならない。

 

パラグラフ11において語られた「使用価値において様々な仕方で表現される(自らを表す)だけである共通の社会的実体」が「結晶化した労働」と言い直される。(交換)価値として、商品=結晶化した労働と言うことによって、交換価値である限り、商品を労働を基礎とするレイヤーで語ることが可能となる。

ここでの注意点は、「結晶化した労働」が「価値」として措定されていないということだ。論述の流れとしては、交換という場面において商品を労働の結晶ととらえ返すのであるから、交換においてあらわになる交換価値が先行し、それに次いで商品のとらえ返しが生じていることになる。

 

②文について

労働の尺度単位そのものは単純平均労働であり、その性格は確かに国や文化的時代によって変わるが、現存する社会においては与えられているのである。

 

①文で、労働を基礎とするレイヤーが成立したことになるので、その労働の「尺度単位(Masseinheit)」を明示することによって労働の大きさを語ることが可能となる。

①文とこの②文で、パラグラフ11②文における「諸商品の価値存在(諸商品が交換価値であるということ)はその(諸商品の)統一性(単位)を形成する」という仕方で語られたことが具体的に語りなおされている。ここで、「諸商品の価値存在(Ihr Werthsein)」を「諸商品が交換価値であること」と読むことによって「価値存在」に関する議論を回避できるとともに、「諸商品の統一性(ihre Einheit)」を「諸商品の単位」と解釈する可能性が確保されるのである。

労働の「尺度単位」を単純平均労働とするのは、マルクスにとっては妥当な流れなのだろう。パラグラフ⑭で単純平均労働に関して語られているが、Ⅱ版以降、ここに関する記述は詳細になったが、基本的な主張は変わらない。

 

ところで、①文もそうだが、この一文に見られるマルクスの叙述態度にも、どうしても納得できないものが残る。「労働の尺度単位は・・・現存する社会においては与えられている」という主張は、ただの断言にすぎず、論証を欠いているからである。したがってこの主張の後に「神を褒めたたえよ!」という文言が続いたとしても、主張の確からしさは大差ないのである。

 

③文について

より複雑な労働は、強力にされた、むしろ掛け合わされた単純な労働をものとしかみなされず、そのため、例えば、複雑な労働の小さな量は、単純な労働の大きな量と等しいのである。

 

「単純労働」という基準となる定量が措定されたので、「複雑な労働」をこの定量の集合体とみなせるわけである。

ここでのマルクスの言い回しの微妙な違いに注意を向けなければならない。②文において基準の定量として措定されたのは「平均単純労働」であった。ここではそれが「単純労働」に置き換えられ、基準定量の集合体という議論の流れを示すことで、その基準が「平均」という性格をもつという論証が省略されているように思われる。

 

④、⑤文について

この還元がどのように調整されるかはここでは重要ではない。

このこと(還元)が常時起きていることは経験が示している。

 

「複雑な労働」を「単純な労働」でとらえ直すことが「常時起きている」ことがわかる「経験」がどのような経験かはよく分からない。

 

⑥、⑦文について

商品は、最も複雑な労働の産物であるかもしれない。

その(商品の)価値は、それ(商品)を単純労働の産物と等しくし、したがってそれ自身は、単純労働の一定量を表しているにすぎないのである。

 

このパラグラフの①文で商品を結晶化した労働と措定したのであるから、労働を単純労働と複雑労働と言う視点からとらえ直すことによって、⑥文で商品を「複雑な労働の産物」ととらえ返している。そして複雑な労働が単純労働の集合体であったことを想定したうえで、さらに(交換)価値という視点から商品を単純労働の集合体とみなす、という展開である。

 

パラグラフ7からのマルクスの議論に関して、2版の記述に即しながら井上・崎山両氏は

「論理的分析的導出ということで言えば、異種の二商品の等置からそれらの二商品とは異なる「第三のもの」、すなわち両商品に表わされた抽象的人間労働を析出することは、まさしく論理的分析的導出そのものである。さらに、この「第三のもの」である抽象的な人間労働一般から等置された二つの商品を捉え返し、それら二つのものを、まったく区別のつかない抽象的人間労働のたんなる凝固体として把握することもまた、論理的分析的導出に他ならない。だが、ここからさらに一歩を進めて、抽象的な人間労働一般のたんなる凝固体として、まったく区別のつかないこれら二つのものを、「双方はそれぞれ価値である」と言明することは、論理的分析的導出と言えるだろうか?『資本論』第二版においてマルクスは、上記のような過程を経て価値を導き、それを「価値の厳密な科学的導出」と主張したのだった。だがこれは、とても納得できるものではない。「労働生産物である商品は、抽象的な人間労働一般の凝固体として価値である」という命題は、論理的分析的に導かれた命題とはいえず、たんなる断定(より精確に言えば、臆断)ではないのか?(『なぜ商品の社会性は価値として現れるのか-価値とは何か』 井上康・崎山政毅 立命館文学663号 2019 P.89)」

と述べている

第一、第二のポイントについては「論理的分析的導出」であるが、第三のポイントにつては「臆断」とする。第三のポイントが「臆断」であるのはまったく異存がない。だが、私には最初ふたつのポイントもどうしても「論証的」に見えないのである。それは、すでにパラグラフ7で「第三のもの」に関する部分で述べたが、ここでの議論を読んでもやはり鬱々としてしまうのである。

「『くぐり抜け』の哲学」をくぐり抜ける(3)

2~3章(続き)

 

 次に挙げる図はそれぞれ、展開のポイントごとに示されるものである。

 ①は2度示される。1度目は「プレイは定義できるか」という小タイトルのもとで、「くらげの人文学史」を振り返る際に、1)から3)への「下降の道」を語る際に示される。(P.214)

プレイの恣意性とそれによって傷つけられることを恐れ、それに耐えられずにゲームの規則性へとひかれていく人間。プレイの世界は「至高性が生じる場所」であり、「芸術性や創造性のあふれる場所」(P.214)であり、上の3)への下降に「『遊び』がかかわる」(P.215)と語られるのである。

 そして自然のプレイを確認することで、恣意性と過剰なまでの攻撃性(暴力性)が示される。そもそも「恣意性」は「いつでも、どこでも、やりたいことを、好きなだけ」という特徴をもつだろう。それが、3)の世界であり、攻撃性(暴力性)を含みながらも、また強い体験を伴う至高性が生まれ出るところでもある。稲垣氏は安吾の例をひきながら、「人間のふるさと」としてのこの世界に耐えることのできない「弱さ」を語る。そして「ゲームがプレイを凌駕していく社会」(P.234)を語る必要性を指示している。

稲垣氏は「わしたちはプレイの暴力を恐れてゲームに逃げるが、そのゲームが暴力装置となり、私たちを傷つけること」もあり、「ゲームによって傷つけられたものたちは、ゲームを壊そうとするプレイの残酷さ(人間のふるさと)を反復する」という。(P.282)

 稲垣氏は①のモードをゲームというまなざしから②へと変容させる。「上からのプレイは」ゲーム制定する側からのプレイであり、「下からのプレイ」は自然がいきなり人間に襲いかかるようなプレイである。そして、「ゲーム内部に取り込まれている人々のプレイ(「ゲーム内プレイ」)の問題を指摘する。(PP.289-292)

 私はこの「ゲーム内プレイ」は重大な問題をはらんでいると思う。現代のネット社会に対する警鐘はいたるところでならされている。

ハン・ビョンチョルは「今日、私たちは、外部からの制約をまったく受けることなく、つまり、そうするように命令する法令もなく、自発的に自らをさらけ出している。誰が、いつ、どのような機会に、何を知っているのか、すこしも考えずに、私たちは自らの自由意志で、考え得るあらゆる情報をインターネット上に公開している。このコントロールの欠如は、深刻に受け止めるべき自由の危機を表している。実際、人々が自由に利用できるデータを考えれば、プライバシー保護(Datenschutz:データ保護)という考え方そのものが時代遅れになりつつある。」と語る。(Byung-Chul Han Psychopolitics:Neoliberalism and New Technologies of Power  Verso 2017 P.11 :原著となるPsychopolitik: Neoliberalismus und die neuen Machttechnikenは2014)

 スマートフォンがこれほど普及し、だれもが、いつでも情報発信者になれる「自由な」世界が既成事実として存在している。そしてそこで「私たちは自発的に自分自身をさらけ出す」(Byung-Chul Han ibid., P.39)のである。私たちは「いつでも、どこでも、やりたいことを、好きなだけ」発信できる場で自らの無限の自由を感じているはずだ。しかし、この世界は「全員が他の全員を見守っている」(Byung-Chul Han ibid., P.10)世界でもある。ハンはこの事態をベンサムパノプティコンを言い換えて「デジタル・パノプティコン」とよんだ。(Byung-Chul Han ibid., P.8)そして「デジタル・パノプティコンの住人は、自分が監視されている、脅かされていると実感することはない」(Byung-Chul Han ibid., P.39)のである。ジョージ・オーウェルの小説で監視国家の象徴であったビッグブラザーは、監視するどころか、無限の自由を感じさせてくれる「フレンドリーなビッグブラザー」(Byung-Chul Han ibid., P.37)になっているのである。

 

 私はハン・ビョンチョルという人をどう理解していいのか分からないでいる。著作の内容は刺激的であり、読んでいて非常に面白いと感じる。だが、テーゼ―が次々と示されていく印象が強くて、どうしても一歩ひいてしまうのだ。

 

 いま「無限の自由」を語った時に「いつでも、どこでも、やりたいことを、好きなだけ」といったが、これは先にプレイの「恣意性」にふれた際に用いた表現である。「全員に見守られている」私たちは、「いつでも、どこでも、やりたいことを、好きなだけ」の原則に従って、際限のない攻撃にさらされる可能性と常に向き合っている。攻撃にさらされた結果、心が折れてしまう人々も生じている。(私は「心が折れる」という表現が好きではない。心が折れてしまった人の「弱さ」を非難する響きを感じてしまうからだ。本当は、「心が折れた」のではない。誰かが力ずくで「へし折った」のだ。)

 

 「ゲーム内プレイ」は稲垣氏が語っている以上に深刻な状況なのではないか。その恣意性は「ゲーム内」という枠組みそのものを破壊しているのではないか。「共感されないもの」への攻撃は制限がないのである。(「許容範囲を超える」というレベルではない。)稲垣氏は③図でさらにモードが変わった状況を示しながら、「共感されないもの」たちへまなざしを向け続けるが、氏の目に映る光景はどのようなものなのだろう。

 「共感を拒むもの、あるいは、共感から取り残されているものに向かって、できる限りの想像力を働かせながら、そこにある経験を「くぐり抜け」ようとしてきた」(P.311)稲垣氏が希望を託す「マイクロ・カインドネス」の光はあまりにも弱々しい。だが私たちはその光を信じるしかない。それこそが「希望の光」だからだ。

 

 最初に名前を挙げたE.アンダーソンは2022年に“CAN WE TALK?”という論文を著している。政治的に分断し、二極化が進む状況に対する深刻な憂いがにじみ出てくる論文である。船底から水がしみだしてくるのを見つめる乗客の恐怖に近いかもしれない。

 彼女は二極化を生じさせる有害な言説の根底にある「恐怖」と「憤り」と「不信」を分析し、自由なコミュニケーションをよみがえらせることの重要性を示す。そして「有害な言説は…自由なコミュニケーションを抑制し、それによって民主主義を頓挫させる。私たちは皆、政治について議論する際に共感、寛容、謙虚さ、慈悲を実践することで、この問題を克服する役割を果たすことができる。これらの美徳を熱心に実践することで、恐怖、憤り、不信を和らげ、他者に相互的な反応を促すことができる。そうしてこそ、民主的な生き方の基盤を強化することができるのである。」(Elizabeth Anderson CAN WE TALK? 2022 Journal of Practical Ethics • vol. 10, no. 1  PP.89-90)と論文をむすぶ。

 「共感、寛容、謙虚さ、慈悲」は「マイクロ・カインドネス」と通底している。 そして私たちにはそれしか残されていないのだ。

 私たちは「必要なのはいつでも、他者が誰であるのかを見極めること、そして彼らの声を聴くコミュニケーションであり、相互の交渉である。」(P.180)という地点に再び立っているのだ。

 

「『くぐり抜け』の哲学」をくぐり抜ける(2)

2章~3章

 

 稲垣氏は強い体験としての至高性から「至高性のない世界」へと論を進める。

インパクトのある作品」などという表現がある。アートにおける「強さ」と結びつく言葉だと思う。「インパクト」から「アート」へという道筋もありうるし、シュトックハウゼンの顰蹙発言(P.149)をみると、「そういうこと言う人もいるだろうね」と思う。

そもそもシュトックハウゼンには激突する飛行機や崩壊するビルしか見えていないはずである。私もあの時、見えているものしか見ていなかった。

   

もちろんこの「見ていない」は、壁の時計を「壁の時計」としてしか見ておらず、時計を支えるホックや、ホックを支える壁や、壁を支える建物の構造部分などを「見ていない」という「私が体験している世界」の話とは異なっている。もっと心理的な話である。

 

本当は爆発するジェット機の内部に黒焦げになっていく人間がいたはずだし、崩れ落ちるビルの内部では、つぶされ、血しぶきをあげ、引きちぎられる人間がいたはずである。少なくとも私はその時そんなイメージを持つこともなかった。そのようなイメージが具体的に現れてきたら、心がもたないような気がする。ひょっとしたら人間は初めからそのようなイメージを持てないようになっているのかもしれない。実際のビルの崩壊直後ではなく、多くの死者が出た事実が分かった後でさえ、シュトックハウゼンがみているものは、人々が死んでいくという具体的で「グロテスクなインパクト」ではなく、何か目にみえていないものの崩壊という理念的な「よりやわらかいインパクト」だったのではないかと思う。

 

「一人の人間の死は悲劇だが、百万人の死はもはや統計である」という出所のよくわからないことばがある。ナチスアイヒマンが言ったとか、スターリンが言ったとか、いろいろいわれているが、最も近い言い回しは1956年に発表されたドイツ人作家レマルクの『黒いオベリスク』にあるらしい。

死はあるレベルを超えると我々には感知できないのかもしれない。

 

強い体験としての至高性の「強い体験」にもし限界があるとすれば、「至高性のない世界」は、男性性と結びつきやすい至高性という強い体験と、初めから背中合わせなのではないかという思いが強い。稲垣氏は「男性性の終わりの可能性」を念頭に置きながら、私たちが今生きる世界を「補助線」的に描いてくれる。「コジェーヴフクヤマが主張した『世界の終わり』とは実は『男性性の終わり』ではないか」とし、これは「他者としての『くらげ』に女性を重ねてきた、そうした『男性性によるまなざしの終わり』と言い換えてもいいかもしれない」(P.155)と述べ、私たちの今生きる世界における他者(=民主主義の他者)を描き出すのである。

 

そこで示される世界はE・トッドの「移行期危機」仮説の放棄に即して語られる。放棄の要因として

①民主主義の起源

②アカデミックな学歴社会における不平等の拡大

③家族システム

の三つのポイントが提示されるが、特に①と②に関して詳しく論じられる。そこにおけるまなざしは「他者」に注がれていると思われる。

 ①について、長くはなるが、E・トッドからの引用を孫引きする。彼は言う。

 「元々の米国の場合でいえば、インディアンと黒人を拒否するが、それはすべての白人を出自を問わずに同化するためであった。

 したがってレイシズム(人種差別)を、アメリカの民主主義に残存する不充分な点の一つと見做すことはできない。それどころか、レイシズムはむしろ、アメリカン・デモクラシーを支える基盤の一つなのだ。

 アメリカは常に、自らの存在を感じるために、ミステリアスな境界線の向こう側に位置づけられる「他者」を必要とするだろう。」(P.162)

 ここで語られているのは、他者なしには自分であり続けることができないという状況である。

 「帰ってきたウルトラマン」という特撮ものがあった。世界の平和を守るために地球に帰ってきたウルトラマンは、正義の味方として毎週、律儀に怪獣をたおし続ける。怪獣を倒すことによって彼は正義の味方であることを示すのである。これは、彼が正義の味方であり続けるためには、怪獣を倒し続ける必要があることを意味する。すべての怪獣を倒してしまえば彼は生まれ故郷の星に帰れるはずなのだが、その時彼は「正義の味方」という彼の存在意義をうしなってしまう。ウルトラマンは彼が彼であり続けるために「怪獣という他者」を必要とするのだ。彼は正義の味方である限り故郷の星に決して戻ることのできない「帰れないウルトラマン」なのである。

 ことば遊びのようなことを書いたが、自分であり続けるための他者とは上記のようなものだろう。しかしE・トッドからの引用で重要なのは、この「他者」が「ミステリアスな境界線の向こう側に位置づけられる」という点である。

 

30年ほど前、J.J.コーエンが「モンスター文化(7つのテーゼ)」(Jeffrey Jerome Cohen, ʻMonster Culture (Seven Theses)ʼ, Monster Theory: Reading Culture, University of Minnesota, 1996)を著し、そこでモンスターに関する7つのテーゼを示した。それは次のようなものである。

①「モンスターの身体は文化的身体である」(The Monster's Body is a Cultural Body)

②「モンスターは必ず逃亡する」(The Monster Always Escapes)

③「モンスターはカテゴリークライシスの前兆である」(The Monster is the Harbinger of Category Crisis)

④「モンスターは「差異の入り口」に宿る」(The Monster Dwells at the Gate of Difference)

⑤「モンスターは可能性の境界線を巡視する」(The Monster Polices the Border of the Possible)

⑥「モンスターに対する恐怖心は実は好奇心である」(The Fear of the Monster is Really a Kind of Desire)

⑦「モンスターは「生成の分岐点」に立つ」(The Monster Stands at the Threshold…of Becoming)

 今、私がE・トッドとの関連で着目したいのは①③④⑤である。

 ①における「文化的身体」とはモンスターは私たちの社会における恐怖や不安を反映したかたちで現れるということである。したがって社会状況が変化するとモンスターも変化することになる。

 ③モンスターをカテゴライズすることで、人間はそれに対する対処法のようなものを手にした気分になるのだろうか。カテゴライズできないモンスターほど恐怖は増す。

 ④モンスターの存在は、モンスターではない側が「自分が何者であるか」を明確にし、モンスターではない者たちの結束を強める。

 ⑤モンスターの存在は、私たちに彼らのいる世界と私たちの世界を明確に意識させる。そこから外に出てはならない、あるいは守るべき「境界」が現れるのである。

 

 E・トッドが「アメリカの『トランプの大統領選勝利』の衝撃を受けながら執筆された『我々はどこから来て、今どこにいるのか』(2017)において」「移行期危機」仮説を放棄した(P.159)のはうなずける。

 数日前にアメリカ大統領選がトランプの完勝によって決着し、彼が大統領に返り咲くことが確定した。トランプがこの選挙において用いたのは「モンスター戦略」であったと思う。彼は、産業の衰退の中で失職を恐れる労働者の前に「海外からの移民の危険性」を示すことで、敵を明らかにした(テーゼ①)。そして「海外移民は犯罪者である」と断言することで「犯罪者」の流入を阻止するという対処法の正当性を示す(テーゼ③)。さらに「ハイチ移民は犬や猫を食べている」と主張し、「食人(カニバリズム)」に対するのとほぼ同じ嫌悪感を醸成し、「まともな人間である我々」の結束力を高め(テーゼ④)、メキシコ国境の「壁」を何度も想起させることで、「壁」の向こうを常にうろついている者たちというイメージを刷り込んだ。(テーゼ⑤)そしてこれらすべては「民主主義を守る」ことへと収斂するのである。

 アメリカの状況は「他者」が「ミステリアスな境界線の向こう側に位置づけられる」ことにおいて民主主義は守られるという事態を端的に示している。E・トッドが今回の状況を見ているとしたら、自説の放棄は正しかったと確信しているだろう。

 

 E・トッドが示した二つ目「アカデミックな学歴社会における不平等の拡大」は、民主主義内部で民主主義そのものが「溶けていく」ような事態である。稲垣氏はこれを次のようにまとめてみせる。「リテラシー(識字化)の上昇と高度経済成長を通じて豊かな中流階級が生まれた。にもかかわらず『高等教育』の普及は、そのアメリカ国民の中に不平等と格差を再度生じさせる。それが大卒と非大卒の人々の分断である。しかも大卒者の内訳として女性が男性を上回る現象が先進各国で起きており、さらに、それまで民主主義から排除されてきた黒人やほかのマイノリティーの人たちへの認知度が高まることで、彼らの状況改善が進められていく。『取り残された人々』として、非大卒白人(多くは男性)の絶望死が問題になったのはこの段階においてである。」(P.185)

 この「取り残され」感は、稲垣氏が例示する「マラソン」の比喩よりも、はるかに悲惨である。「マラソン」は競技世界の外側に「もどれる日常」が存在しているが、「取り残された非大卒白人」の「取り残され」感は、最近耳にする「詰んだ」の感覚に似ているだろう。(こういう話題が気にかかるのは、「補助線」の内容に取りつかれているからだろう。私が興味のあるテーマは、「正義」「平等」「民主主義」であり、読書の対象はかなり偏向している。したがって、「民主主義」という言葉を見た瞬間に、「明りに吸い寄せられる昆虫状態」になってしまい、離れられなくなる。)

 「リテラシーを身につけた私たちは、自分の身近な他者と比較しながら、社会内に自分が正当に位置づけられているかどうかを勝ち負けで正確に判定しようとする。」(p.196)ここに「取り残された感覚」と「最小な不平等」という「平等で公平な民主制のメンタリティを促した「リテラシー」とともに醸成され」(P.189)た「過敏性」が存在し、それの「他者への攻撃性」への反転の問題性を指摘しながらプレイとゲームの問題へと議論は展開する。そして読者である私は、このプレイとゲームに対するまなざしの様相(モード)の変化を見ながら最終地点へと向かうのである。

「『くぐり抜け』の哲学」をくぐり抜ける(1)

 

長い間沈黙していた。

体調の関係がいちばん影響しているが、読む本が現象学関係のものが多くなって、資本論になかなか戻れなくなっていたのだ。

 

その間に読んだもので、たいへん印象深かった「『くぐり抜け』の哲学」(稲垣諭、講談社、2024)に関する感想をまとめているので、それを掲載する。

(ちなみに、この文章はなぜか著者の目にふれ、間接的にではあるが著者の感想もうかがうことができた。筋金入りの素人の文章なのにありがたいことである。)

 

(「くぐり抜け」からの引用はページ数のみ、他の文献からの引用はその都度、出典を含めて記載)

 

1章

 『「くぐり抜け」の哲学』を読み終わった。

 私は個人的に、本は最初の部分がキャッチ―なものが良いと常々思っている。その点でこの本はとても良い。まずクラゲの話に「へえ、そうなんだ。」と思い、また「あれ、なんでクラゲとくらげの二種類の表記が混在してるんだ?(これは読み進めていくうちにわかってくる)」となる。この時点で私はこの論述に「つかまれて」しまっているのだ。

 

 ちなみに、私がこれまでで最も「キャッチ―」だと思った出だし部分はエリザベス・アンダーソンのPrivate Government(2017 Princeton University Press)という本の第2論文だ。特権階級と一般人が明確に分けられ、国民の自由を奪い、日常生活にまで制限をかける、ゴリゴリの共産主義国家の話がしばらく続き、いきなり、「これ、アメリカのスーパーマーケット最大手ウォルマート就業規則です」と種明かしされる。読んでいる側は「あっ、やられた!」と思い、読み進めてしまう。

 アンダーソンは、政府でもないただの私企業がなぜこのように個人の自由を制限できるのかを論じ、そこから民主主義の問題へと議論を深めていく。読ませます。いい本です。また、アメリカ・ナビスコが就業時間中のトイレ使用を禁止していた(しかも1990年代初めまで)事実なんて初めて知りました、というような自分の無知が露呈するのもよいところです。

 

 おそらく、最初の段階で「クラゲのうんちく話をぐだぐだと書いて、いったい何のつもりなんだ」と思った人は、「くぐり抜け」できないかもしれない。知識を吸収しながらこの本の周辺を“クラゲのように”漂うことになるかもしれない。

 

これは現象学的なアプローチという「くぐり抜け」の根幹にかかわる問題なのだと思う。

 

「『くらげ』という言葉からぱっと連想できる記憶から、水族館、生物学的構造、生態学的特徴、社会問題と経巡るなかで、それまでの『クラゲ』との距離感の変化が起きてはいないだろうか。この変化はどこで起きているのかといえば、クラゲたちの場所ではない、そうではなくクラゲの世界をくぐり抜けようとする私たちの経験の変化である。」(p.27)と稲垣氏は言う。これは現象学的なアプローチを最も簡潔かつ具体的に述べたものだろう。

稲垣氏は、「くぐり抜け方法論1」「くぐり抜け方法論2」を提示したのちに「他者をくぐり抜けて理解するということは、その他者の周辺/環境情報を知るにとどまらず、その他者とのかかわりのなかで自分自身を作り変えていくことなのだ。」(P.36)とも言う。

そして、このアプローチ以外にないがゆえに、「他者が私を理解すること以上に、私にとって自分を理解することもいっそう難しい。自分が自分にとっての他者になるように自己の統覚を解除して、くぐり抜けないと、私自身にも近づけない。」(P.46)という独白にも似た叙述がなされるのだろう。

 「世界が多数性をもつこと、しかもそのことを理解している段階で、私たち人間は、それらの世界を飛び出て、通覧する位置から、他の環境で生きるものたちを『同一の世界』へと関連づけようとする。あるいは、意識せずとも私たちはそう関連づけてしまう。この事実は無視できず、その意味でも「くぐり抜け」は、その結果として『他者の占領/横領』のリスクを常に抱え込んでしまう。」(PP.42-43)という注意は重い。

 「くぐり抜け」のこの「危うさ」が「触れること」へと私たちを導いていく。「触れる」とはおそらく他者を体験する際の「私の構え」のようなものではないか。それは他者に対する「構え」であると同時に「他者を体験することそのもの」に対する「構え」だと理解しているのだがどうなのだろう。

 「触れること」がこのようなものであれば、「1.4 くらげの人文学史」において、現代歌人の伊藤紺の歌における驚きと、川端康成の小説の主人公の「驚き」に関して、「伊藤のこうした他者への驚きと、牧田の驚きには、完全に異なる何かがある。他者に触れる手がちがうといわざるをえない。」(P.90)という記述も理解できる。

 

 このとき引用された伊藤紺の最後の歌

「べつべつの人間なのに花の咲く匂いで一緒に笑えてよかった」

には、「共感」をもつとともに、なにか落ち着かなくなる。この歌に情動的共感の漠然とした基盤のようなものを見てしまうからである。

 

 臨床心理学者の北山修氏(この名前を聞いて、1970年前後に絶大なる人気を博した「ザ・フォーク・クルセイダーズ」というフォークグループのメンバーというほうが先に思い浮かんだ人は、私と同年代である)が提唱した「共視論」がある。

 北山氏は浮世絵に母子がいっしょに何かを眺めている構図が多いことから出発し、そこに「ともに眺める=共視」という概念を導入した。子は母の視線の先を追い、同じものを眺め、母に語り掛けられる。その繰り返しの中に言語、思考、文化の伝達機能が存在するという考えである。北山氏は「『共視論』母子像の心理学」(2005 講談社選書メチエ)において楊州周延(ようしゅう ちかのぶ)の浮世絵作品を取り上げ、そこにキャプションを入れているが、「共視、名付け、情緒的交流、身体的交流」以外に「共に眺めること」と「共に思うこと」がすこし大きめの文字で付されている。(「共視論」P.19)

 「同じものを見る=同じものが見えている」状態が「共に思う」とつながるのは分かりやすい話である。

 数年前まで、福岡に「大濠花火大会」という毎年数万の観客が訪れる催しがあった。最後に最大の花火が打ち上げられ、大きく広がったとき、その数万の観客が同時にどよめくのである。その瞬間に人々の心の中を占めるのは、ほぼ同じ感覚あるいは「美しい!」という思いではないかということに気づき、驚いた記憶がある。

 「共に見る」と「共に感じ、思う」ことは容易に結びつく。それが伊藤紺の「べつべつの人間なのに花の咲く匂いで一緒に笑えてよかった」に同じ構造として存在しているのではないかと思う。そしてこの「私たちは同じことを感じている」という一体感こそ情動的な共感を形成するのではないか。(「ザ・フォーク・クルセイダーズ」のヒット作に「あのすばらしい愛をもう一度」という曲があり、その歌詞に「あの時同じ花を見て/美しいといった二人の/心と心が今はもうかよわない」という一節が既にあることに驚く。共視論そのままではないか。)

 共感は人が生活していく上で重要な心の働きであると思う。

 しかし、「共感されないものは憎まれるよりも、むしろ単に無視され、なかったこととされ」たり、また、ある対象に「共感できない『他』を排除」されたりする(PP.310-311)という指摘を待つまでもなく、共感と排除はいつも寄り添って現れる。(私の「落ち着かなさ」はこのあたりに由来している。)

 またさらに、ここには、私が私の体験している世界に他者を引き込む「他者の占領/横領」のリスク=簒奪リスクが存在してもいる。「あなたは私と同じ体験をしている」と思う自分をいったん疑うべきなのである。

 「くぐり抜け」の雑誌連載が始まる2年前、稲垣氏は「ケアの現象学には『ケア』という語感に含まれる『人間性(ヒューマニティー)』への根強い確信があるように思える。他者の内的体験世界を歪めることなく、ありのままに記述することがすなわち社会的な善であるとの信念に貫かれている。配慮や傾聴といった人道的な情感を盾にこの自然さは駆動する。…とはいえ、である。現象学研究を行うということは、そうした信念をこそまずエポケーすべきドクサとして見抜かねばならない」と言い、「当事者の経験をありのままに記述すること」の困難さを語った(「ありのままの生とインタビュー中心主義の帰趨 -『ケアの現象学』の素朴さが映すもの」 2020 実存思想論集XXXV PP.54-55)。これは、「くぐり抜け」における他者経験の簒奪リスクに対する警鐘と通底する意識であろう。

 

「観察する側の欲望の投影」としての「くらげの形象」は、最後には、舞踏というかたちで「自分の願望と解放の欲望」が重ねられた「くらげ」として語られ、そこにおける強い体験をともなう「至高性」が語られる。これまで、クラゲを見る私たちにとっての「くらげ」体験が変容しつつ、クラゲの「くぐり抜け」が行われてきたことになる。稲垣氏は次なる「くぐり抜け」へと向かう(クラゲのように漂いながら?)。

(34)Ⅰ版本文 パラグラフ11-3 Ⅱ版をみてみる(2)

6、7パラグラフの展開は、

①労働生産物の使用価値の捨象→②労働の有用性の捨象→③抽象的に人間的な労働→④社会的実体(=労働)の結晶→⑤価値

というものである。

④から⑤はⅠ版と同様に断定されているに過ぎない。労働が結晶して価値になるということをそもそも論証する意図があるのだろうかと言いたくなる。見田石介さんみたいに、「労働一般は、抽象的労働と具体的労働との二面をもっているが、私的生産という条件のもとでは、この抽象的労働が対象化し物化して価値となる。価値とはそうしたものだ、というのがマルクスの明らかにしていることである」(見田石介 「資本論の方法」『見田石介著作集』第4巻 大月書店 1977 P.95)とし、「マルクスは価値を分析して、 その実体、 内容を明らかにしているが、この実体、 内容、はまずすこしも歴史的なものでなく、 労働そのものの永遠の属性、その抽象的人間労働としての一側面であり、 またその価値の量を規定するものも、 やはりどんな社会においても、 人間の関心事であったところのその労働の分量、 すなわち生産力のそれぞれの発展水準のちがいに よってちがいがあるにしても、穀物や糸や布をつくるのに社会的に平均的 に必要とされる労働の継続時間にほかならぬことを示しているのである。 これもやはりすこしも商品社会に特有のものではない」(見田石介 「資本論の方法」『見田石介著作集』第4巻 大月書店 1977 P.96)という具合に、「労働そのものの永遠の属性」として受け入れるわけにもいかない。

論証の可能性を考えてみる必要がある。

(34)Ⅰ版本文 パラグラフ11-2 Ⅱ版をみてみる(1)

Sieht man nun vom Gebrauchswerth der Waarenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten. Jedoch ist uns auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahiren wir von seinem Gebrauchswerth, so abstrahiren wir auch von den körperlichen Bestandtheilen und Formen, die es zum Gebrauchswerth machen. Es ist nicht länger Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich Ding. Alle seine sinnlichen Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützliche Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiednen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusammt reducirt auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.

今、商品体の使用価値を度外視すれば、商品体に残るものは、労働生産物という特性のみである。しかし、労働生産物は我々の手の中ですでに変化している。労働生産物の使用価値を捨象すれば、それを使用価値にしている物体的な構成要素や形態も捨象することになる。それはもはやテーブルでも家でも糸でも、その他の有用なものでもない。すべての感覚的な性質は消失している。それはまた、もはや大工仕事、建築仕事、紡績仕事、その他のある一定の生産労働の生産物でもない。労働生産物の有用な性格とともに労働生産物において現れている労働の有用な性格は消失し、したがって、これらの労働のさまざまな具体的形態も消失し、それらはもはや異なるものではなく、すべて同じ人間的労働、抽象的に人間的な労働に還元されるのである。

 

Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übrig geblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d. h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Krystalle dieser ihnen gemeinschaftlichen gesellschaftlichen Substanz sind sie Werthe.

次に、労働生産物の残りについて考えてみよう。同じ具体性を持たない対象性以外のなにものも残っておらず、無差別の人間労働の単なる凝固物、つまり、その支出の形式を顧みることのない人間労働力の支出の凝固物以外のなにものも残っていないのである。これらの事物が表しているのは、その生産において人間の労働力が費やされ、人間の労働力が積み上げられるということだけである。それらの事物に共通するこの社会的実体の結晶として、それらは価値なのである。

(34)Ⅰ版本文 パラグラフ11-1

①Als Gebrauchsgegenstände oder Güter sind die Waaren körperlich

verschiedne Dinge. ②Ihr Werthsein bildet dagegen ihre Einheit.

③Diese Einheit entspringt nicht aus der Natur, sondern aus der Gesellschaft.

④Die gemeinsame gesellschaftliche Substanz, die sich in

verschiednen Gebrauchswerthen nur verschieden darstellt, ist — die

Arbeit.

 

①文について

「使用対象または財として、諸商品は物体的に異なる事物である。」

 

諸商品はそれぞれ物体的に異なる。使用対象であるということは使用価値という側面でとらえているのであるのだから当然だろう。

 

②文について

「これに対して、諸商品の価値存在(諸商品が価値であるということ)はその(諸商品の)統一性(単位)を形成する。」

 

Werth sein → Werthseinとして読む。

1867年出版の初版本PDFでは、Werthとseinの間が微妙に離れており、別単語のようにみえるが、文法的に意味が分からなくなるので、Werthseinとするのが正しいのだろう。新MEGAでもWerthseinとなっているようだ。Ihrとihreはどちらも①文のdie Waarenを指している。

 

諸商品の価値存在(ここでの価値も交換価値?)が諸商品の「統一性をなしている」という時の「統一性」とは何だろうか。諸商品の自然的属性を度外視して交換可能とするような「単位」だろうか。Einheitには「統一」という意味以外に「単位」という意味もあるので、「単位」と解釈することも不可能ではない。「単位」と解釈すると、パラグラフ6で見た、1クウォーターの小麦をx量の靴墨、y量の絹、z量の金に交換することで、1クウォーターの小麦が特別な地位を持つという展開がイメージしやすくなるのである。x量の靴墨、y量の絹、z量の金が交換可能なのは、それらが1クウォーター小麦分の靴墨であり、絹であり、金だからである。

 

③文について

「この統一性は自然からではなく社会から生じる。」

 

諸商品の「価値存在」は商品の自然的属性の捨象、使用価値の捨象において現れるのだから、「統一性(単位)」が自然から生じることはない。また、諸商品の交換において「交換価値」が現れるのであるから、「統一性(単位)」をなしている「価値存在」は交換という社会関係から生じていることになる。

 

④文について

「様々な使用価値において様々な仕方で表現される(自らを表す)だけである共通の社会的実体、それは『労働』である。」

 

様々な使用価値とは先に出てきた「諸商品」であろう。「諸商品」に「共通の社会的実体」が現れている。この「共通の社会的実体」は「労働」であることが提示されるが、論証はない。この提示が可能であるためには、諸商品が労働生産物であり、かつ同時にそこに労働が結実していることが示されなければならない。論理的には、商品が労働生産物であることと、そこに(Ⅱ版以降で使用される)「抽象的人間労働」が存在することは別ものであるだろう。ここでの主張は論証なしの言明に過ぎない。

 

このパラグラフで商品→価値→社会的実体→労働という展開がなされているのだが、この展開の必然性の保証は明確なものではないと思うのだが、どうだろうか。