資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(34)Ⅰ版本文 パラグラフ11-3 Ⅱ版をみてみる(2)

6、7パラグラフの展開は、

①労働生産物の使用価値の捨象→②労働の有用性の捨象→③抽象的に人間的な労働→④社会的実体(=労働)の結晶→⑤価値

というものである。

④から⑤はⅠ版と同様に断定されているに過ぎない。労働が結晶して価値になるということをそもそも論証する意図があるのだろうかと言いたくなる。見田石介さんみたいに、「労働一般は、抽象的労働と具体的労働との二面をもっているが、私的生産という条件のもとでは、この抽象的労働が対象化し物化して価値となる。価値とはそうしたものだ、というのがマルクスの明らかにしていることである」(見田石介 「資本論の方法」『見田石介著作集』第4巻 大月書店 1977 P.95)とし、「マルクスは価値を分析して、 その実体、 内容を明らかにしているが、この実体、 内容、はまずすこしも歴史的なものでなく、 労働そのものの永遠の属性、その抽象的人間労働としての一側面であり、 またその価値の量を規定するものも、 やはりどんな社会においても、 人間の関心事であったところのその労働の分量、 すなわち生産力のそれぞれの発展水準のちがいに よってちがいがあるにしても、穀物や糸や布をつくるのに社会的に平均的 に必要とされる労働の継続時間にほかならぬことを示しているのである。 これもやはりすこしも商品社会に特有のものではない」(見田石介 「資本論の方法」『見田石介著作集』第4巻 大月書店 1977 P.96)という具合に、「労働そのものの永遠の属性」として受け入れるわけにもいかない。

論証の可能性を考えてみる必要がある。

(34)Ⅰ版本文 パラグラフ11-2 Ⅱ版をみてみる(1)

Sieht man nun vom Gebrauchswerth der Waarenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten. Jedoch ist uns auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahiren wir von seinem Gebrauchswerth, so abstrahiren wir auch von den körperlichen Bestandtheilen und Formen, die es zum Gebrauchswerth machen. Es ist nicht länger Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich Ding. Alle seine sinnlichen Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützliche Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiednen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusammt reducirt auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.

今、商品体の使用価値を度外視すれば、商品体に残るものは、労働生産物という特性のみである。しかし、労働生産物は我々の手の中ですでに変化している。労働生産物の使用価値を捨象すれば、それを使用価値にしている物体的な構成要素や形態も捨象することになる。それはもはやテーブルでも家でも糸でも、その他の有用なものでもない。すべての感覚的な性質は消失している。それはまた、もはや大工仕事、建築仕事、紡績仕事、その他のある一定の生産労働の生産物でもない。労働生産物の有用な性格とともに労働生産物において現れている労働の有用な性格は消失し、したがって、これらの労働のさまざまな具体的形態も消失し、それらはもはや異なるものではなく、すべて同じ人間的労働、抽象的に人間的な労働に還元されるのである。

 

Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übrig geblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d. h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Krystalle dieser ihnen gemeinschaftlichen gesellschaftlichen Substanz sind sie Werthe.

次に、労働生産物の残りについて考えてみよう。同じ具体性を持たない対象性以外のなにものも残っておらず、無差別の人間労働の単なる凝固物、つまり、その支出の形式を顧みることのない人間労働力の支出の凝固物以外のなにものも残っていないのである。これらの事物が表しているのは、その生産において人間の労働力が費やされ、人間の労働力が積み上げられるということだけである。それらの事物に共通するこの社会的実体の結晶として、それらは価値なのである。

(34)Ⅰ版本文 パラグラフ11-1

①Als Gebrauchsgegenstände oder Güter sind die Waaren körperlich

verschiedne Dinge. ②Ihr Werthsein bildet dagegen ihre Einheit.

③Diese Einheit entspringt nicht aus der Natur, sondern aus der Gesellschaft.

④Die gemeinsame gesellschaftliche Substanz, die sich in

verschiednen Gebrauchswerthen nur verschieden darstellt, ist — die

Arbeit.

 

①文について

「使用対象または財として、諸商品は物体的に異なる事物である。」

 

諸商品はそれぞれ物体的に異なる。使用対象であるということは使用価値という側面でとらえているのであるのだから当然だろう。

 

②文について

「これに対して、諸商品の価値存在(諸商品が価値であるということ)はその(諸商品の)統一性(単位)を形成する。」

 

Werth sein → Werthseinとして読む。

1867年出版の初版本PDFでは、Werthとseinの間が微妙に離れており、別単語のようにみえるが、文法的に意味が分からなくなるので、Werthseinとするのが正しいのだろう。新MEGAでもWerthseinとなっているようだ。Ihrとihreはどちらも①文のdie Waarenを指している。

 

諸商品の価値存在(ここでの価値も交換価値?)が諸商品の「統一性をなしている」という時の「統一性」とは何だろうか。諸商品の自然的属性を度外視して交換可能とするような「単位」だろうか。Einheitには「統一」という意味以外に「単位」という意味もあるので、「単位」と解釈することも不可能ではない。「単位」と解釈すると、パラグラフ6で見た、1クウォーターの小麦をx量の靴墨、y量の絹、z量の金に交換することで、1クウォーターの小麦が特別な地位を持つという展開がイメージしやすくなるのである。x量の靴墨、y量の絹、z量の金が交換可能なのは、それらが1クウォーター小麦分の靴墨であり、絹であり、金だからである。

 

③文について

「この統一性は自然からではなく社会から生じる。」

 

諸商品の「価値存在」は商品の自然的属性の捨象、使用価値の捨象において現れるのだから、「統一性(単位)」が自然から生じることはない。また、諸商品の交換において「交換価値」が現れるのであるから、「統一性(単位)」をなしている「価値存在」は交換という社会関係から生じていることになる。

 

④文について

「様々な使用価値において様々な仕方で表現される(自らを表す)だけである共通の社会的実体、それは『労働』である。」

 

様々な使用価値とは先に出てきた「諸商品」であろう。「諸商品」に「共通の社会的実体」が現れている。この「共通の社会的実体」は「労働」であることが提示されるが、論証はない。この提示が可能であるためには、諸商品が労働生産物であり、かつ同時にそこに労働が結実していることが示されなければならない。論理的には、商品が労働生産物であることと、そこに(Ⅱ版以降で使用される)「抽象的人間労働」が存在することは別ものであるだろう。ここでの主張は論証なしの言明に過ぎない。

 

このパラグラフで商品→価値→社会的実体→労働という展開がなされているのだが、この展開の必然性の保証は明確なものではないと思うのだが、どうだろうか。

(33)Ⅰ版本文 パラグラフ10

①Unabhängig von ihrem Austauschverhältniss oder von der Form,

worin sie als Tausch-Werthe erscheinen, sind die Waaren daher

zunächst als Werthe schlechthin zu betrachten 9).

    ②9) Wenn wir künftig das Wort „Werth“ ohne weitere Bestimmung brau-

            chen, so handelt es sich immer vom Tauschwerth.

 

①文について

「したがって商品は、その(=商品の)交換関係やそれ(=商品)が交換-価値として現れる形式にかかわりなく、まず第一に価値とみなされる。」

 

商品は交換関係、交換価値としての現れ方に関わらず価値である。

これは、パラグラフ9の3文目③Dem Tauschwerth nach betrachtet ist nämlich eine Waare grade so gut als jede andre, wenn sie nur in richtiger Proportion vorhanden ist. 「交換価値という側面からみれば、ある商品が正しい割合で存在しさえすれば、他の商品とちょうど同じだからである。」を直接受けており、ihrem、sieはどちらも「商品」を指す。①文は「商品は価値である」という内容であり、文脈的には商品の交換は価値の交換であるということを意味している。

 

②文(マルクスによる注)について

「今後、我々が『価値』という語を、より以上の規定をすることなしに使用する場合、それは常に交換価値のことを意味している。」

 

これはマルクス自身による本文への注である。これからすると、少なくとも①文最後の「価値」は「交換価値」を意味する。

すると①文は、交換関係において商品の交換は「交換価値」の交換である、と言っていることになる。したがって、ここでの「価値」を交換価値以外のものとして解釈することは誤りであるということになる。

「価値」という概念をどう捉えるかは重要な問題だと思う。井上・崎山論文では、パラグラフ7の③Was besagt diese Gleichung? ④Dass derselbe Werth in zwei verschiednen Dingen, in 1 Qrtr. Weizen und ebenfalls in a Ctr. Eisen existirt. を解釈する際に、次のように述べられていた。

「初版の『同じ価値』、フランス語版の『共通なあるもの』には等式に即した大きさあるいは量の規定が既に含みこまれている。だが、ある等式がいかなる属性におけるものであるのかということと、その大きさもしくは量の規定との間には概念上の厳然たる区別がある。ただ体積や質量などの自然的属性においては、量的規定性がその概念の契機として内在する。これに対して、いま問題にしている価値には、量の規定性が内的な契機としては存在しない。だからこそ、異種の二商品の等置関係においてはまず何よりもそれがいかなる属性におけるものであるのかが、その大きさもしくは量的規定性を規定するまえに概念的に確定されなければならない。価値には量的規定性が内在しないので、まず等式が社会的属性としての価値におけるものであることを明らかにし、その上でその大きさもしくは量的規定性を問題にしなければならないのである。」(商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(2) 井上康・崎山政毅 立命館文学633号2013 PP.106-107)

この解釈の前提になっている枠組みは

①異なる事物に存在する「同じ価値」、「共通なもの」→量の規定が含まれる

②両者が由来する「価値」は社会的属性をもつ

③この価値の実体は労働である

というものだろう。

ただ、問題なのは初版がこの枠組みからずれているのではないかという点である。換言すれば初版は別の枠組みで動いているのではないかということである。初版の論理展開がどのようなものであるのかが問題となるのである。

井上・崎山論文では

マルクスはまず、パラグラフ⑥《われわれのパラグラフ番号ではパラグラフ10-引用者》で、諸商品を交換価値・価値形態からは独立に諸価値として考察すべきだと言う。価値が前提されてしまっていること、あるいは仮言的に措かれていることがここでもはっきりと出ている。だが、これまでも述べてきたように論理的な筋道は明確であり、価値の内容はどういうものであるのかが追究されることになる。こうしてパラグラフ⑦で、諸商品は価値において統一性をなすと述べられ、それを可能にしている根拠・内実として、『労働』が導出される。」(商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(2) 井上康・崎山政毅 立命館文学633号2013 P.118)と述べられており、ここでの「価値」は交換価値と異なる物として解釈されており、マルクス自身の注が無視されていることになる。

商品が交換価値として理解されるかされないかは大きな問題をはらんでくるとおもわれるのだが、どうだろうか。

(32)Ⅰ版本文 パラグラフ9-3 Ⅱ版とフランス語版の対応箇所を確認する(2) 内容

Ⅱ版とフランス語版は内容的にほぼ同一である。内容をまとめると、

①「この共通のもの」は自然的特性(自然的属性)ではなく、この物体的特性(自然的性質)は使用価値において考慮される。

②使用価値は交換関係において捨象される。

③使用価値はある一定の割合でほかの使用価値と同じである。

これに対して、初版では

①「交換価値の実体」は商品の「物理的」な定在とは異なる独立したものであり、それは交換関係から分かる。

②交換関係は使用価値の捨象によって特徴づけられる。

③交換価値という側面からいえば、商品がある割合で存在すれば、他の商品と同じである。

Ⅱ版・フランス語版と初版の根本的な違いは、最初の「共通のもの」と「交換価値の実体」というところである。

Ⅱ版・フランス語版では「共通のもの」は文脈上「交換価値」であろう。初版の「交換価値の実体」が何を意味しているのかは問題となるだろう。

すでに述べたようにパラグラフ⑤の叙述との関係から、整合的に理解するには「交換価値の実体」を「交換価値という実体」のように同格的に読むのが良いのだろが、解釈として可能かどうか議論のあるところだろう。

 

井上・崎山論文の解釈について

両氏は、初版パラグラフ9の3文目③Dem Tauschwerth nach betrachtet ist nämlich eine Waare grade so gut als jede andre, wenn sie nur in richtiger Proportion vorhanden ist.における ‘sie’が段落最初のdie Substanz des Tauschwerthsを指し、Ⅱ版における対応箇所Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswerth grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist.における’er’が段落最初のDiess Gemeinsameを指すという解釈をされている(商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(2) 井上康・崎山政毅 立命館文学633号2013 PP.114-115)が、’sie’は直前のeine Waare、’er’も同様に直前のein Gebrauchswerthを指しているとするのが、文法的に素直に読むことになるような気がするのだがどうだろうか。

(32)Ⅰ版本文 パラグラフ9-2 Ⅱ版とフランス語版の対応箇所を確認する(1) 訳

Ⅱ版

Diess Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physische, chemische

oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waaren sein. Ihre körperlichen

Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar

machen, also zu Gebrauchswerthen. Andrerseits ist aber das Austausch-

verhältniss der Waaren augenscheinlich charakterisirt durch die Abstraktion

von ihren Gebrauchswerthen. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswerth

grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vor-

handen ist. Oder, wie der alte Barbon sagt: „Die eine Waarensorte ist

so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwerth gleich gross ist. Da existirt

keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich

grossem Tauschwerth" 8). Als Gebrauchswerthe sind die Waaren vor

allem verschiedner Qualität, als Tauschwerthe können sie nur verschiedner

Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswerth.

 

この共通のものは、商品の幾何学的、物理的、化学的、その他の自然的特性でありえない。その物体的特性は、それが商品を有用なものにする限り、すなわち使用価値にする限りにおいてのみ考慮される。しかし他方で、商品の交換関係は、その使用価値の捨象によって明らかに特徴づけられる。その交換関係の中で、ある使用価値は、それが適切な割合で存在しさえすれば、他のどの使用価値とも同じなのである。老バーボンが言うように「交換価値が同じであれば、ある種類の商品も他の種類の商品と同じである。交換価値が等しいものの間には違いも区別もない」のである。使用価値として諸商品は、何よりも異なる質であり、交換価値としては諸商品は、異なる量であって、それゆえほんのかけらの使用価値も含まないのである。

 

フランス語版

Ce quelque chose de commun ne peut être une propriété naturelle quelconque,

géométrique, physique, chimique, etc., des marchandises. Leurs qualités

naturelles n'entrent en considération qu'autant qu'elles leur donnent une

utilité qui en fait des valeurs d'usage. Mais d'un autre côté il est évident

que l'on fait abstraction de la valeur d'usage des marchandises quand on

les échange et que tout rapport d'échange est même caractérisé par cette

abstraction. Dans l'échange, une valeur d'utilité vaut précisément autant

que toute autre, pourvu qu'elle se trouve en proportion convenable. Ou

bien, comme dit le vieux Barbon : « Une espèce de marchandise est aussi

bonne qu'une autre, quand sa valeur d'échange est égale; il n'y a aucune

différence, aucune distinction dans les choses chez lesquelles cette valeur

est la même1.» Comme valeurs d'usage, les marchandises sont avant tout

de qualité différente; comme valeurs d'échange, elles ne peuvent être que de

différente quantité.

 

この共通のものは、商品の幾何学的、物理的、化学的などの自然的属性ではありえない。その自然的性質が考慮されるのは、それが使用価値を生む有用性を与える限りにおいてのみである。しかし他方で、商品の使用価値は、それらが交換されるときには捨象され、あらゆる交換関係がこの捨象によって特徴づけられることは明らかである。交換において、ある使用価値は、それが適切な比率である限り、他のどの使用価値と同じだけの価値がある。あるいは、老バーボンが言うように、「交換価値が同じであれば、ある種類の商品も他の種類の商品と同じである。使用価値として商品は、何よりも異なる質であり、交換価値として商品は、異なる量でありうるにすぎない。

(32)Ⅰ版本文 パラグラフ9-1

Ⅰ版本文 パラグラフ9

①Dass die Substanz des Tauschwerths ein von der physisch-handgreif-

lichen Existenz der Waare oder ihrem Dasein als Gebrauchswerth

durchaus Verschiednes und Unabhängiges, zeigt ihr Austauschverhältniss

auf den ersten Blick. ②Es ist charakterisirt eben durch die Abstraktion

vom Gebrauchswerth. ③Dem Tauschwerth nach betrachtet ist näm-

lich eine Waare grade so gut als jede andre, wenn sie nur in richtiger

Proportion vorhanden ist.

 

①文について

「交換価値の実体は、物理的で手に取ることができる商品の存在や使用価値としての定在とは全く異なる、独立したものであることを、その交換関係が一目で分かるように示している。」

 

井上・崎山論文では、パラグラフ7の二つの商品に同じ「価値」が現れており、それらが還元される「第三のもの」は価値実体としての「労働」であると解釈されている。それに基づいてここでの「交換価値の実体」は「労働」として理解されている。そして、ここでの文脈では内容的に「交換価値」でなければならない『初版の「交換価値の実体」という表現は明らかに間違い』であると断言している。

この難点を避けるには、Dass die Substanz des Tauschwerthsを同格的に訳して「交換価値という(使用価値の)実体」と読むしかないのだろうが、ここでは「交換価値の実体」が何であるかの議論はおいておく。「価値実体」が「労働」であるという展開は、テキスト上まだなされていない以上、内容の先取りになるからである。

 

「物理的で手に取ることができる商品の存在や使用価値としての定在」はⅡ版の「商品の自然的特性(natürliche Eigenschaft der Waaren)」、フランス語版の「それらの自然的性質(leurs qualités naturelies」と同じ内容を表している。「交換価値の実体」を同格的に読む限りで、これ以降の内容とのつながりが保たれる。

 

②文について

「それ(=交換関係)は、まさに使用価値の捨象によって特徴付けられる。」

交換関係が使用価値の捨象を通して成立するのであれば、上で示された「自然的属性」とは異なるものが現れているわけである。それが「交換価値の実体」である。

 

③文について

「交換価値という側面からみれば、ある商品が正しい割合で存在しさえすれば、他の商品とちょうど同じだからである。」

この展開はパラグラフ5の①文

①Der Tauschwerth erscheint zunächst als das quantitative Verhältniss, die Proportion, worin sich Gebrauchswerthe einer Art gegen Gebrauchswerthe anderer Art austauschen, ein Verhältniss, das beständig mit Zeit und Ort wechselt.

「まず、交換価値は量的な関係として、すなわちある使用価値がそこにおいて他の使用価値と交換される比率として、時と場所によって絶えず変転する関係として現象する。」

と同じ構造である。ここでは使用価値は捨象され、交換価値の量的な関係が現れている。

既に出てきた商品交換の例でいえば、1クウォーターの小麦とaツェントナーの鉄の交換関係において、「1クウォーターの小麦とaツェントナーの鉄」が正しい割合で存在する「ある商品」と「他の商品」(Ⅱ版、フランス語版では"使用価値"〔Gebrauchswerth, valeur d'utilitè〕)であり、それらが交換されたということから両者は「同じ」だといえる。そこでは、商品の「自然的属性」は考慮されてはおらず、その量のみが意味を持っていることになる。