再び長く沈黙してしまった。理由は前回と同じく入院のためである。ただし今回は別の病気も併発して、その後遺症の痛みに苦労している。こうしてキーボードを打つのにもひと苦労といったところだ。
どこまで読めるか分からなくなってきたようであるが、がんばってみようと思う。
(35)Ⅰ版本文 パラグラフ12
①Als Werthe sind die Waaren nichts als krystallisirte Arbeit.
②Die Masseinheit der Arbeit selbst ist die einfache Durchschnittsarbeit, deren Charakter zwar in verschiednen Ländern und Kulturepochen wechselt, aber in einer vorhandnen Gesellschaft gegeben ist.
③Komplicirtere Arbeit gilt nur als potenzirte oder vielmehr multiplicirte einfache Arbeit, so dass z. B. ein kleineres Quantum komplicirter Arbeit gleich einem grösseren Quantum einfacher Arbeit.
④Wie diese Reduktion geregelt wird, ist hier gleichgültig.
⑤Dass sie beständig vorgeht, zeigt die Erfahrung.
⑥Eine Waare mag das Produkt der komplicirtesten Arbeit sein.
⑦Ihr Werth setzt sie dem Produkt einfacher Arbeit gleich und stellt daher selbst nur ein bestimmtes Quantum einfacher Arbeit dar.
①文について
①価値として商品は結晶化した労働にほかならない。
パラグラフ11において語られた「使用価値において様々な仕方で表現される(自らを表す)だけである共通の社会的実体」が「結晶化した労働」と言い直される。(交換)価値として、商品=結晶化した労働と言うことによって、交換価値である限り、商品を労働を基礎とするレイヤーで語ることが可能となる。
ここでの注意点は、「結晶化した労働」が「価値」として措定されていないということだ。論述の流れとしては、交換という場面において商品を労働の結晶ととらえ返すのであるから、交換においてあらわになる交換価値が先行し、それに次いで商品のとらえ返しが生じていることになる。
②文について
②労働の尺度単位そのものは単純平均労働であり、その性格は確かに国や文化的時代によって変わるが、現存する社会においては与えられているのである。
①文で、労働を基礎とするレイヤーが成立したことになるので、その労働の「尺度単位(Masseinheit)」を明示することによって労働の大きさを語ることが可能となる。
①文とこの②文で、パラグラフ11②文における「諸商品の価値存在(諸商品が交換価値であるということ)はその(諸商品の)統一性(単位)を形成する」という仕方で語られたことが具体的に語りなおされている。ここで、「諸商品の価値存在(Ihr Werthsein)」を「諸商品が交換価値であること」と読むことによって「価値存在」に関する議論を回避できるとともに、「諸商品の統一性(ihre Einheit)」を「諸商品の単位」と解釈する可能性が確保されるのである。
労働の「尺度単位」を単純平均労働とするのは、マルクスにとっては妥当な流れなのだろう。パラグラフ⑭で単純平均労働に関して語られているが、Ⅱ版以降、ここに関する記述は詳細になったが、基本的な主張は変わらない。
ところで、①文もそうだが、この一文に見られるマルクスの叙述態度にも、どうしても納得できないものが残る。「労働の尺度単位は・・・現存する社会においては与えられている」という主張は、ただの断言にすぎず、論証を欠いているからである。したがってこの主張の後に「神を褒めたたえよ!」という文言が続いたとしても、主張の確からしさは大差ないのである。
③文について
③より複雑な労働は、強力にされた、むしろ掛け合わされた単純な労働をものとしかみなされず、そのため、例えば、複雑な労働の小さな量は、単純な労働の大きな量と等しいのである。
「単純労働」という基準となる定量が措定されたので、「複雑な労働」をこの定量の集合体とみなせるわけである。
ここでのマルクスの言い回しの微妙な違いに注意を向けなければならない。②文において基準の定量として措定されたのは「平均単純労働」であった。ここではそれが「単純労働」に置き換えられ、基準定量の集合体という議論の流れを示すことで、その基準が「平均」という性格をもつという論証が省略されているように思われる。
④、⑤文について
④この還元がどのように調整されるかはここでは重要ではない。
⑤このこと(還元)が常時起きていることは経験が示している。
「複雑な労働」を「単純な労働」でとらえ直すことが「常時起きている」ことがわかる「経験」がどのような経験かはよく分からない。
⑥、⑦文について
⑥商品は、最も複雑な労働の産物であるかもしれない。
⑦その(商品の)価値は、それ(商品)を単純労働の産物と等しくし、したがってそれ自身は、単純労働の一定量を表しているにすぎないのである。
このパラグラフの①文で商品を結晶化した労働と措定したのであるから、労働を単純労働と複雑労働と言う視点からとらえ直すことによって、⑥文で商品を「複雑な労働の産物」ととらえ返している。そして複雑な労働が単純労働の集合体であったことを想定したうえで、さらに(交換)価値という視点から商品を単純労働の集合体とみなす、という展開である。
パラグラフ7からのマルクスの議論に関して、2版の記述に即しながら井上・崎山両氏は
「論理的分析的導出ということで言えば、異種の二商品の等置からそれらの二商品とは異なる「第三のもの」、すなわち両商品に表わされた抽象的人間労働を析出することは、まさしく論理的分析的導出そのものである。さらに、この「第三のもの」である抽象的な人間労働一般から等置された二つの商品を捉え返し、それら二つのものを、まったく区別のつかない抽象的人間労働のたんなる凝固体として把握することもまた、論理的分析的導出に他ならない。だが、ここからさらに一歩を進めて、抽象的な人間労働一般のたんなる凝固体として、まったく区別のつかないこれら二つのものを、「双方はそれぞれ価値である」と言明することは、論理的分析的導出と言えるだろうか?『資本論』第二版においてマルクスは、上記のような過程を経て価値を導き、それを「価値の厳密な科学的導出」と主張したのだった。だがこれは、とても納得できるものではない。「労働生産物である商品は、抽象的な人間労働一般の凝固体として価値である」という命題は、論理的分析的に導かれた命題とはいえず、たんなる断定(より精確に言えば、臆断)ではないのか?(『なぜ商品の社会性は価値として現れるのか-価値とは何か』 井上康・崎山政毅 立命館文学663号 2019 P.89)」
と述べている
第一、第二のポイントについては「論理的分析的導出」であるが、第三のポイントにつては「臆断」とする。第三のポイントが「臆断」であるのはまったく異存がない。だが、私には最初ふたつのポイントもどうしても「論証的」に見えないのである。それは、すでにパラグラフ7で「第三のもの」に関する部分で述べたが、ここでの議論を読んでもやはり鬱々としてしまうのである。
