ベーム・バヴェルクが引用したのは、ベ・バの件(2)で示したように4つのパラグラフだが、ベ・バの件(3)でとりあげた「交換価値は、まずある量的な関係として・・・。」のパラグラフから一つとばして赤文字パラグラフ、また一つとばして緑文字パラグラフ、青文字パラグラフ、紫文字パラグラフとくる。二つのパラグラフがとばされているが、二つ目は三角形の面積を使った具体例のパラグラフで、とばしても論理展開に深刻な影響はなさそうである。
でも一つ目はまずい。どう考えてもまずい。これがなかったら、赤文字パラグラフで出てくる「第三のもの」の導出がたいへんになると思うのだが・・・。
まず、とばされたパラグラフから引用する。
①Eine einzelne Waare, ein Quarter Weizen z. B. tauscht sich in den verschiedensten Proportionen mit andern Artikeln aus. ②Dennoch bleibt sein Tauschwerth unverändert, ob in x Stiefelwichse, y Seide, z Gold u. s. w. ausgedrückt. ③Er muss also von diesen seinen verschiedenen Ausdrucksweisen unterscheidbar Gehalt haben.
3文から構成されているパラグラフ。
①文目
「個々の商品、例えば1クウォーターの小麦は様々な比率でほかの商品と交換される。」
②文目
「しかし、小麦の交換価値は、x量の靴墨で、y量の絹で、z量の金で表現されようと変わらぬままである。」
一対多の交換。小麦はいろんなものと交換されます、という話。
ここでの話においては、それぞれの商品に差はないので、y量の絹が様々な比率でほかの商品と交換され、「絹の交換価値は、1クウォーター小麦、x量靴墨、z量金で表現されようと変わらぬままである。」となっていてもOKのはず。すべての商品が交換関係に投げ込まれても、同様のことが起きる。
この文を図式的にまとめると、
1クウォーターの小麦 *** x量の靴墨
1クウォーターの小麦 *** y量の絹
1クウォーターの小麦 *** z量の金
である。
1クウォーターの小麦が他の様々な商品と交換されるのだから、1クウォーターの小麦の交換価値が様々な商品で表現されるのはごく自然なことだと思う。そして、ここでは、1クウォーターの小麦の交換価値はそのままなのだから、それがどのような商品で表現されようが変わらぬままである、というのも納得いく。
③文目
「したがって、それ(1クウォーターの小麦の交換価値)はこの、それ(1クウォーターの小麦の交換価値)の様々な表現様式から区別可能な内容を持たなければならない。」
図式的にいえば次のようになる。
「1クウォーターの小麦」はx量の靴墨、y量の絹、z量の金に対して「諸表現様式を表せるただ一つのもの」であり、それらのものとは異なる地位にいることになる。この交換関係の構造は重要な意味を持つ。個々の商品に対して特別な意味を持つ者の存在が語られているからである。
当然、「(x量の靴墨、y量の絹、z量の金などの)様々な表現様式から区別可能な内容」とは何かということが問題になってくる。
そして、マルクスとしては、次のパラグラフでそれを一挙に示そうとしている。