資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(23)間違いでした。訂正します!

パラグラフ6,7を再解釈することにした。

 

先に、パラグラフ6、7を解釈したときに、「第三のもの」を導き出す際、パラグラフ6の図式による類比的な導出を行った。これでは、次の3点がどうしても問題として残ることに気が付いた。

1.パラグラフ6の解釈の際に、交換された商品が同じ価値的な大きさを持つことを暗黙裡に想定して解釈していた。しかも

2.類比的な導出は、「第三のもの」が出てくる必然性を保証できない。

3.「第三のもの」は単数形で表記されており、初めから一つであることが前提されているが、「一つである」ことを保証する根拠をしめしていない。

特に、3番目は悩ましい問題だと思う。

「1クウォーターの小麦」、「aツェントナーの鉄」に生じた「同じ価値」は「同じ大きさ」であるが、おおきさが「同じ」であるからといって、それが必然的にひとつのものに由来するのだろうか。それぞれの有する「同じ価値」は「第三のもの」「第四のもの」…に由来する可能性はないのか。

次の図式Aを見てほしい。

この場合でも、「1クウォーターの小麦」と「aツェントナーの鉄」の交換が行われると、交換関係のなかで起きていることは「第三のもの」だけの場合(図式B)と同じなのだ。「第三のもの」と「第四のもの」は交換の成立によって初めて「同じ大きさ」であることがわかるのである。

「第三のもの」が一つだけ書かれた図式Bにおいても、1クウォーターの小麦側から「自分の中にある価値」の由来を探ることができるとしたら、「自分の中の価値」と同じ大きさの何かがあることがみえるはずである。同様にaツェントナーの鉄についても、「自分の中の価値」と同じ大きさの何かをみることになる。しかし、相手が何と結びついているのかはみえない。なぜならマルクスは「交換価値である限り、他方のもから独立にこの第三のものに還元可能でなければならない」といっているからである。「1クウォーターの小麦」と「aツェントナーの鉄」はお互いに他方が何と結びついているのかとは無関係に、「何かある大きさ」と結びつくのである。これは、B図式においてもA図式と同様の事態が生じていることを示す。

「同じ大きさの何か」は「同じ大きさ」ではあるが、「一つのもの」であるかどうかは確定しないのである。

私たちが「AとBに同じ大きさのものが存在する」という事態を考える際に、「同じもの」はA、Bからそれぞれ取り出されて、別のものとして扱われるのだが、それはA、B双方に存在しているにも関わらず、「おなじもの」なのであり、それに基づいて「ひとつのもの」と考えられてしまっているのではないか。「量的な等しさ」を「同一性」へと無意識に捉え直すのである。

そして、単数形の「第三のもの」がそれを促しているのだと私は考えている。

 

マルクスはこのこれらを問題にしていない。そもそも考えてもいないのだろう。考える必要がなかったからである。つまり、資本論の叙述の内部でこれらが問題とならないような構造が存在しているはずである。

したがって、この3点を回避するために、解釈しなおす。