資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(19)Ⅰ版本文 パラグラフ4

Ⅰ版本文 パラグラフ4

①Die Nützlichkeit eines Dings für das menschliche Leben macht es

zum Gebrauchswerth4). ②Abkürzend nennen wir das nützliche Ding

selbst oder den Waarenkörper, wie Eisen, Weizen, Diamant u. s. w.,

Gebrauchswerth, Gut, Artikel. ③Bei Betrachtung der Gebrauchs-

werthe wird stets quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend

Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen u. s. w. ④Die Gebrauchswerthe der

Waaren liefern das Material einer eignen Disciplin, der Waaren-

kunde5). ⑤Der Gebrauchswerth verwirklicht sich nur im Gebrauch oder

der Consumtion. ⑥Gebrauchswerthe bilden den stofflichen Inhalt

des Reichthums, welches immer seine gesellschaftliche Form

sei. ⑦In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zu-

gleich die stofflichen Träger des — Tauschwerths.

 

ここのパラグラフは書き方が変わっている。

④文以降は主語がすべて「使用価値」なのだ。「使用価値は〇〇だ」という具合に、使用価値の諸側面を示していく。

 

①文について

「人間の生にとって、ものの有用性がものを使用価値とする。」

有用なものはパラグラフ②から「人間の欲求を何らかの仕方で満たす特性をもつもの」であったから、「有用」という視点から物は「使用価値」ととらえ直されることになる。そして、欲求を満たすその諸特性が使用価値の内実であるといえるだろう。

 

②文について

「鉄、麦、ダイヤモンド等々のような、有用なもの自体、あるいは商品体を、我々は端的に使用価値、財(Gut)、商品(Artikel)などと呼んでいるのである。」

商品体=使用価値の措定。

商品体は具体的なものとしての商品のことだろう。だから、ものの諸特性(有用性)は商品に具体的に備わっていることになる。欲求を満たす諸特性が使用価値の内実だったのであるから、その諸特性の担い手である商品体が使用価値とされるのは自然の流れだと思う。

 

ここから、それぞれの文において、使用価値がどのようなものであるかが示される。

③文について

「使用価値の考察の際には、1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄などのように、常に量的な規定が前提されているのである。」

使用価値の在り方1

商品体としての使用価値が取り扱われる場合、その量的規定が問題になる。

パラグラフ1で「資本主義的生産様式が支配する社会」における商品は「生産物」あり、「交換される(流通する)」ことが宣言されているので、量が問題になるのは当然である。そもそも「量的な規定」を持たない商品体とは、「そこに一つもない商品=存在しない商品」であり、無意味である。

 

④文について

「商品の使用価値は、商品学というひとつの固有の学科の材料を提供する。」

使用価値の在り方2

商品体としての使用価値は商品学の素材である。

 

経済学におけるドイツ古典派と呼ばれる人々(ロッツやラウ)が、イギリス古典派の「価値説」を不十分として、「有用性」「使用価値」を商品の価値として考えるという立場をとっている。たとえば、ロッツには、価値は「人間の諸目的のための道具として財が持つ有用性の程度以外のなにものも意味しない」という叙述もあるし(ロッツ『国民経済学の基本諸概念の修正』第1巻 1811年)、またラウはA・スミスが交換価値に比べ使用価値について深く言及していないことを指摘し、「客観的使用価値」唱えている(ラウ(『政治経済学教本』の第1巻 1826 年)。このことも多少は関係しているのだろうか?

 

大学のリポジトリを探って、学術論文を読んでみると、『哲学の貧困』や『経済学批判要綱』に「商品学」への言及があるらしいが、本格的に読む時間的余裕がない。残念だ。

専門的に読んでいる人たちは、こういうことで悩んだりはしないのだろうなあ。

 

⑤文について

「使用価値は、使用または消費においてのみ実現される。」

使用価値の在り方3

使用価値の実現はその使用、消費である。

有用な物は「人間の欲求を何らかの仕方で満たす特性をもつもの」であったから、それが、「有用であった」といえるのは、「人間の欲求が何らかの仕方で満たされた」ときである。

だが、「道具は使って初めて、食べ物は食べて初めて意味を持つ」というところだけに限定されないだろう。すでにパラグラフ1の①文について考えた際に、商品は、「資本主義的生産様式」において生産され、行き来する(verkehren)商品であることを指摘しておいた。この構図においては、商品の行き来(Verkehr)=交換も使用と消費ととらえてもいいはずだ。使用価値Bを手に入れるために使用価値Aと交換する。そこにおいて、Aは交換の道具として使用され、消費されたと考えてもいいのではないか。

 

⑥文について

「諸使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであれ、富の素材的内容を形作っている。」

使用価値の在り方4

諸使用価値は富の素材的内容を形成する。

パラグラフ1にあったように、「商品」は「富の要素形態」だったのだから、商品体としての使用価値は富の素材であるとされるのだろう。

 

⑦文について

「私たちによって考察されねばならない社会形態においては、それら(諸使用価値)は同時に、交換価値の素材的な担い手をなしている。」

使用価値の在り方5

「資本主義的生産様式が支配している社会(パラグラフ1)」において諸使用価値は交換価値の素材的な担い手である。

商品体として使用価値は、交換価値がそこに現れる具体的な担い手である。

 

これらの在り方に、パラグラフ5からの論述のポイントが含まれる。