資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

ベーム・バヴェルクの件(6)資本論2版解釈

緑文字パラグラフ

①„Dies Gemeinsame“ – fährt Marx fort – „kann nicht eine geometrische, physische, chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. ②Ihre körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten. ③Andrerseits ist aber das Austauschverhältnis der Waren augenscheinlich charakterisiert durch die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten.

④Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswerth gerade so viel wie jeder andere, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist. ⑤Oder, wie der alte Barbon sagt: ‚Die eine Warensorte ist so gut wie die andere, wenn ihr Tauschwerth gleich groß ist. ⑥Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwerth. ⑦Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiedener Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedener Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert“.

 

①文について

マルクスはさらに続ける。「この共通のものは商品の幾何学的、物理的、化学的、あるいはその他の自然的特性ではあり得ない。」

ものの諸特性は有用性と呼ばれ、その有用性がものを「使用価値」にする。有用性が「ものの諸規定性」としてものから切り離されないように、有用性は「商品としてのもの」の諸規定性から切り離せない。  

概念図で示せば、下のようになる。商品は、物である限り諸特性を持ち、商品である限り諸生産物特性を持つだろう。そしてそうであるかぎり、これらの諸規定性と切り離されない。商品は「これらの諸特性のかたまり」として存在している。

同様に、これらの諸規定性が使用価値を形成し、使用価値はこの諸規定性なしには存立できない。したがって、商品と使用価値の語を交換して使えるはずである。

したがって、②文が可能になるのである。

 

②文について

「一般に商品の物体的な諸特性は、それらが商品を有用にする、したがって使用価値にする限りで、問題とされるにすぎないのである。」

  「商品の物体的な諸特性」が商品を使用価値にすることは前のパラグラフの確認でふれた。上記の構造においては、これらの諸特性は、「商品・使用価値」との関連でのみ考慮されるのである。

 

③文、④文について

③文

「しかしながら他方では、諸商品の交換関係は、それらの使用価値の捨象によって明白に特徴づけられるのである。」

  交換関係 → 使用価値の捨象(die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten)

※ abstrahieren von…が、・・・を抽象化する、・・・を度外視する、という意味なので、ここからは場合によって「抽象」を「捨象」という語に変えて話を進めることがある。

④文

「この交換関係の内部においては、使用価値は、それがちょうどよい割合である場合に、他の使用価値とちょうど同じであるとされるのである。」

 

  ここで確認できることは、

  a交換関係の中におかれた商品は、「同じ大きさのある共通なもの」をもつ。

  b「第三のもの」は関係項である商品とは別のものである。

  ということである。

すると、考えなければならないのは、交換関係において使用価値が捨象されるとはどういう事態なのか、という問題である。

交換が成立したときに、交換されたものが等しいことが明らかになるのだが、この等しさとはaの「同じ大きさのある共通なもの」である。しかもこの「同じ大きさのある共通なもの」は交換以前には認められず、商品が交換関係の中に置かれたとたんに現れたように見えるのである。

「同じ大きさのある共通なもの」は交換関係の項である商品の諸特性に由来するものではない。なぜなら、1クウォーターの小麦がaツェントナーの鉄ではなく、y量絹のようにその諸特性がまったく異なる商品が交換される場合でも、交換が成立すればこの「同じ大きさのある共通なもの」は存在することになるからである。

とすると、交換において問題となるのはこの「同じ大きさのある共通なもの」であり、使用価値ではない。

この「交換価値の現われ」はゲシュタルト心理学で用いられた「ルビンの壺」の見え方に似ている。人の顔を「図」と見たとたんに壺は「地」になり見えなくなる。交換価値が現れたとたんに使用価値は見えなくなるのである。

 

⑤、⑥、⑦文は「老バーボン」からの引用のため省略。

 

ここでの議論は特に問題を含まない。「使用価値の抽象」とは交換において「使用価値が度外視されること」であり、度外視された使用価値の代わりに交換価値が働いているという論理構成である。