資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

(30)Ⅰ版本文 パラグラフ8-3  ★方針を考える★

(1) マルクスはこのパラグラフになんの問題も感じていなかったはずなのに、なぜ私たちはこのパラグラフが具体例になっていないと感じているのかを整理してみる。それは、

①文の「簡単な幾何学的例がこのことを説明する。」における「このこと」の指す内容がパラグラフ7をさしているのに、その説明になっていない。その結果、②③文の内容と④文の内容が合わない、というものである。

(2) テキストが正しいとすると、テキスト内容に齟齬が生じていると感じるのは、(1)の「このこと」の指す内容の理解がおかしいからということになる。「このこと」の内容を限定することで解釈が可能か確認する必要がある。

(3) パラグラフ8だけの内容を見る。②③文の内容と④文の内容の対応関係を明確にする。その際、他のパラグラフ、他の版の内容を参照しない。

 

②③文の内容と④文の内容の対応関係

②文

「すべての直線図形の面積を定め、比較するために、その図形を三角形に分解する。」

③文

「(人は)その三角形を、その目に見える形とは全く異なる表現に還元する、--すなわち、底辺と高さの積の半分に還元するのである。」

まとめ

◎直線図形は三角形に分解される

(三角形に分解する目的・・・直線図形の「面積を定め、比較するため」)

◎三角形は面積公式に還元される。

◎面積公式は三角形の諸規定に含まれない外的なものである。

 

④文

「同様に、諸商品の諸交換価値は、ある共通のものに還元されるのであるが、その諸交換価値がその共通なものの「多い、少ない」を表しているのである。」

◎直線図形が諸商品に対応する。

◎三角形が交換価値に対応する。

◎面積公式が共通のものに対応する。

◎共通なものの「多い、少ない」を、交換価値が表している。言い換えれば、面積公式で表されるものの「多い、少ない」を交換価値が表しており、この表現からは、共通のものが大きさを持つことにはならない。

面積公式は面積という大きさを表現することはできるが、公式そのものは面積を持たないということである。

 

②③文であるものが別のものに還元されることが書かれ、④文で「同様に」還元される事態が語られている。結局、パラグラフ8は「還元される」とはどういう事態かを述べているだけである。

すると、①文にあった「このこと」はパラグラフ7の⑥文「したがって両者の各々は、交換価値である限り、他方のものから独立にこの第三のものに還元可能でなければならない。」の「還元可能」を指しているという方針で考えるのが妥当なのではないか。

これで考えてみる。

(29)Ⅰ版本文 パラグラフ8-2 井上・崎山両氏の第2論文に思うこと(その2)

この謎の具体例パラグラフに関して、井上・崎山両先生はおおよそ次のような解釈を行っている。

① ①文の「簡単な幾何学的例がこのことを説明する。」の「このこと(diess)」はこれまでの内容、とりわけ、直前のパラグラフ7で述べられたことをさしている。

② この幾何学上の一例は適切なものとは到底言えない。逆にかえって理解を妨げるものでしかない。

  1.すべての直線図形の面積を定め、比較することが問題なっており、直前のパラグラフ7というより、パラグラフ5・6との対照となっている。

2.二商品の等置・等式という純粋に社会的な属性におけるものに対して図形の面積という自然的属性における等式が例示として提示されている。

3.価値という量的規定性を内的契機として含まないものに、面積という量的規定性を内的契機とするものが対照として措かれる。

4.価値にせよ、価値実体である商品に表わされた抽象的人間労働にせよ、きわめて抽象性の度合が高いものに対して、抽象性の度合がまったく比較することができないほど低い三角形やその面積の式が対照される。

③ .第④文とパラグラフ7最後の第⑥文との間に齟齬がある。

  ④Ebenso sind die Tauschwertheder Waaren zu reduciren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehroder Minder darstellen.

   同様に、諸商品の諸交換価値はある共通のものに還元されるのであるが、その諸交換価値がその共通なものの「多い、少ない」を表しているのである。

  

   ⑥Jedes der beiden, soweit es Tauschwerth, muss also, unabhängig von dem  andern, auf diess Dritte reducirbar sein.

   したがって両者の各々は、交換価値である限り、他方のものから独立にこの第三のものに還元可能でなければならない

 

④ アードルフ・ヴァーグナーの『一般的または理論的経済学 第一部 原論』(改訂増補第二版、1879 年)に対する「批判的傍注」(1879 年から 1880 年 11 月までに執筆)からすると、パラグラフ④(実際にはパラグラフ8…引用者)の「共通なもの」とは価値ということにならざるを得ない。だとすると、「還元する〔reduciren〕」という言葉の不適切さと共に、先に述べた難点、つまりそれにつづく「共通なもの」=価値の「あるいはより多くを、あるいはより少なくを」諸交換価値は表わしているという、価値自体が増減して自らの大きさを定立するかのような言明になってしまうという難点を抱えることになる。

パラグラフ③(実際にはパラグラフ7…引用者)の「第三のもの」が価値であることはありえず、価値実体たる労働であることは明らかであり、このパラグラフ③からの文章上のつながりから言っても、「第三のもの」を価値だとするのはまったく不自然である。このパラグラフ③とのつながりの不自然さは、第二版やフランス語版では「第三のもの」も「共通なもの」もすべて価値だとすれば論理の上では消失する。だがそうすると、今度はパラグラフ③の文章がまったく不自然なものになってしまう。なぜならば「共通なもの」と「第三のもの」とわざわざ表現を変えているからである。更に、「第三のもの」についての叙述が初版と第二版とでは同じであることからしても、またその内容からしても一層大きな不自然さが生まれることになる。ここには「混乱」があるとしか言いようがない。

 

⑤ このパラグラフ8は「このように、種々様々な交換関係を示す諸等式において、各等式の両項つまり二つの異種の労働生産物である二商品が、同じ量の第三のものに還元されることによってこれらの商品は同じ大きさの共通なあるものと認められるのであり、かくして双方の交換価値はこの同じ大きさの共通なあるものを表わすことになる。そしてこの共通なものの大きさはかの第三のものの量の多少によることになるのである。」とされるべきであった。

(商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(2) 井上康・崎山政毅 立命館文学633号2013 PP.111-114)

 

両先生のおっしゃる通りである。パラグラフ7とパラグラフ8は話が合わない。具体例としてパラグラフ7を説明していないのである。そして、両先生のよう内容を書きなおせば話はスッキリする。

しかし、ただひとつ問題が残るのだ。2版、フランス語版という書き換えチャンスがあったにもかかわらず、なぜマルクスはこのパラグラフをそのままにしたのかという点だ。変更しなかったということは、マルクスはこれが具体例として成り立っていると考えていたということだ。したがって、これが具体例として成り立つような解釈が必要とされるはずだ。両先生のように、ここに「混乱」を認め、こうあるべきだと書き直しても、このパラグラフの存在理由は分からないままなのだ。

(28)Ⅰ版本文 パラグラフ8-1(謎の具体例パラグラフ)

①Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche diess. ②Um den

Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen,

löst man sie in Dreiecke auf. ③Das Dreieck selbst reducirt man auf einen

von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck — das halbe

Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. ④Ebenso sind die Tauschwerthe

der Waaren zu reduciren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr

oder Minder darstellen.

 

①文について

「簡単な幾何学的例がこのことを説明する。」

②文への前書き。

 

②文について

「すべての直線図形の面積を定め、比較するために、その図形を三角形に分解する(解く? 辞書には適訳がない)。」

これは、理解できる。図で書けばこれでしょ? 

問題は次の文。

③文について

「(人は)その三角形を、その目に見える形とは全く異なる表現に還元する、--すなわち、底辺と高さの積の半分に還元するのである。」

②文、③文を続けて考えると話はこうだ。

多角形は三角形に分解される。三角形は「三角形の面積公式」に還元される。

これに対してパラグラフ7では

「したがって両者の各々は、交換価値である限り、他方のもから独立にこの第三のものに還元可能でなければならない。」と記述されており、還元は商品(交換価値)とは別の「第三のもの」への還元である。

次の④文では、「同様に、商品の交換価値は・・・」と話が変わるので、具体例はここまで。マルクスとしては、この二つの文読んだうえで④文を読んで、読者が「あっ、なるほど、そうだったのか!」みたいになると思って書いたのだろうが・・・全然わからない。特に何が何に還元されて、それによって何がおきているのか、そしてこれが具体例として成立する理由が判然としない。

 

④文について

「同様に、諸商品の諸交換価値は、ある共通のものに還元されるのであるが、その諸交換価値がその共通なものの「多い、少ない」を表しているのである。」

ここでの「ある共通のもの」とは、パラグラフ7で出てきた二つの商品の内部に存在している「同じ価値」を指しているだろうか、それともそれらの価値とはべつのものとしての「第三のもの」を表すのであろうか。④文の内容だけから判断すると「第三のもの」に見えるかもしれないが、三角形の具体例だと商品とは別のものに還元されるのは話が合わない。しかも商品の交換価値はこの「共通のもの」の大きさを表すと言っている。パラグラフ7では無規定的であった価値に関して、ここで初めて「多い、少ない」という仕方で「大きさ」に関する規定が現れるのである。

 

結局、パラグラフ7の最終文と内容が合わないし、②③文の内容と④文の内容も合わないのである。これは困った。いったいどうやったら整合的な解釈ができるのだろうか。

時間がかかりそうだ。

(27) 再解釈 Ⅰ版本文 パラグラフ7

①Nehmen wir ferner zwei Waaren, z. B. Weizen und Eisen. ②Welches

immer ihr Austauschverhältniss, es ist stets darstellbar in einer Gleichung,

worin ein gegebenes Quantum Weizen irgend einem Quantum Eisen gleich

gesetzt wird, z. B. 1 Quarter Weizen = a Ctr. Eisen. ③Was besagt

diese Gleichung? ④Dass derselbe Werth in zwei verschiednen

Dingen, in 1 Qrtr. Weizen und ebenfalls in a Ctr. Eisen existirt. ⑤Beide

sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine, noch

das andere ist. ⑥Jedes der beiden, soweit es Tauschwerth, muss also, un-

abhängig von dem andern, auf diess Dritte reducirbar sein.

 

①文について

「さらに二つの商品、例えば小麦と鉄をとってみよう。」

 fernerは「さらに」というよりは、「次に」とか「目を転じて」くらいの意味合いだろうか。パラグラフ6でわれわれは「一対多」の交換関係から、その関係の多数性に基づいた「交換関係の海」の構造を読み取った。そこでの交換は、「ハブ」と「枝」の交換関係であった。しかし、ここでは任意の商品の関係は「一対一」になり、「枝」と「枝」の交換関係になる。ここからの展開が重要。

 

②文について

「その交換関係がどのようなものであれ、それ(その交換関係)は、常にひとつの等式で、ある与えられた量の小麦がある量の鉄と等置されるような、例えば1クウォーターの小麦=aツェントナーの鉄のような等式で記述されうる。」

二つの商品が交換関係の中に置かれる。そしてその関係の中に置かれたとたんにお互いに等しいものとされる。交換関係の成立と商品の等しさは同時なのである。商品が交換されたということから、それらが等しかったということが確認される、ということであるだろう。この等しさは交換が成立する要件といえるが、これは原因結果の関係ではなく、交換関係の内実はこの等しさである、ということだろ。パラグラフ6も交換の話からスタートしていたではないか。

言い方をかえれば、「交換する」と「二つの商品が等しい」は一つの事態の異なる表現なのだと思う。

どちらにしろ、マルクスの展開からすると「等しいから交換される」という事態では決してないだろう。

 

③文について

「この等式は何を意味しているのか」

④文への移行のためのパラグラフ。

 

④文について

「同じ価値が、二つの異なるもののうちに、すなわち1クウォーターの小麦のうちに、同様にまたaツェントナーの鉄のうちに存在していること、これを意味している。」

交換されたのであるから、二つの商品の内部に「同じ価値」が存在している。マルクスの叙述はあっさりしているが、これは重大な事柄を含んでいる。交換関係の等式が示す「等しさ」の内実がいきなり示されているからだ。

それにしてもこの「価値」って何だろうか。

交換が成立してしまうと、「二つの異なるもの=商品」は「二つの異なるもの」ではなく二つの「同じ価値をもつもの」となる。交換関係において「同じ価値」の存在が生じるといえる。交換以前には「同じ価値」は存在していなかったのであるから、この事態は交換に特有の事態であるといえる。しかも「同じ価値」であって「同じ大きさの価値」とも「同じ内容の価値」などと記述されているわけではない。つまり、価値に関しては無規定なのだ。そして、この無規定的価値の規定を可能にする構造が次の⑤文で語られる。

 ※2版では「同じ大きさを持つある共通のもの」という表現になっており(Das Kapital 2auflage S.11)、「大きさ規定」を含めている。しかし、初版ではいまだ無規定的であるので、この無規定性を前提にして話を進めざるを得ない。

 

⑤文について

「したがって両者はある第三のものに等しいのだが、その第三のものはそれ自体としては、両者の一方でも、また他方でもないのである。」

「したがって」という語がなぜこの記述の流れで使用可能なのか。パラグラフ6で確認した「交換関係の海」=「交換関係の構造」が存在しているからである。

そこで確認したことは、

①同じ交換系においてのみ、任意の二つの商品の「枝同士の直接的関係」は可能である。

②任意の二つの商品が「枝同士の直接的関係」である場合、両者は共通のハブを持つ。

③隣接する二つの商品が同時にハブであることはない。

という3点であった。

いまパラグラフ7では、「二つの商品の交換」を問題としているので、②より両者は「交換関係の構造」から共通のハブを持つことになり、両者から独立した「第三のもの」が必然的になる。

 

⑥文について

「したがって両者の各々は、交換価値である限り、他方のもから独立にこの第三のものに還元可能でなければならない。」

「両者の各々」(「1クウォーターの小麦」と「aツェントナーの鉄」)はそれぞれが他方のものとは関係なしに、共通のハブに関係している。そしてハブと枝の関係も交換関係であるので、複数の枝の持つ交換価値を表すものとして特別な在り方を示すハブが現れていることになる。そしてこのハブが「第三のもの」であった。

⑤文で示した「同じ価値」は他方のものから与えられたわけではない。それは交換が成立したとたんに両者の中に生じ、そして同時に「第三のもの」との関係も生じているのである。他方を介することなしに枝である商品はその交換価値を表現するものへと結びつくのである。

ここでの「還元可能(reducirbar)」は「それが由来するところのものを開き示すことが可能な」という意味となるだろう。「第三のもの」が単数形であることも、交換関係に置かれた枝は共通のハブを持つことに基づくのである。

 

ネタとベタ  開示する社会

テレビの「視聴者投稿動画」が苦手だ。特に家屋が激しく燃える火事現場の動画を見ると「ぞわぞわ」する。炎の中に焼け焦げていく人間の姿を想像してしまうということもあるが、その動画が「ニュースネタ」として撮影されたということに対する「ぞわぞわ」感が強い。

様々なものが撮影され、情報として開示されていく。スマホの普及率を考えると、私たちはいつでも自分が監視対象になりうる社会に生活しているのだと強く感じる。

フーコーパノプティコン(panopticon)やマシーセンのシノプティコン(synopticon)を取り上げるまでもなく、世間は十分に「監視社会」なのだ。しかもそれはオーウェルビッグブラザーによる支配でもない。「ビッグブラザーはすべてを見ている」とヘリコプターから常に言われているわけではないのだ。スマホの向こう側に無数の目が無言で私たちを取り巻き、何かをきっかけに目を開くのだ。

さきほど「ニュースネタ」といったが、ある事態が「ネタ」と認められれば目は開く。しかしネタかどうかの基準は判然としない。

以前、すし屋で商品をペロペロする動画がニュースになったが、あの動画を撮影した子どもにとっては、「僕はこんなことできるんだ。おもしろいでしょ」くらいのノリだったはずだ。そしてその動画を信頼できる少数の仲間と共有する。それはネタであり、仲間うちで情報が開示されるのだ。その仲間はさらに信頼できる者と共有する。

共有の輪はいっきに広がり、いずれそれをネタではなくベタだと感じる人々の目に触れる。そして「この子はなんてことをやってるんだ!」となる。すると、この「なんてことをやってるんだ!」がネタとなり、一気に拡散する。そして当人の個人情報もネタとなり、公開される。

昨日のネタは今日のベタ、今日のベタは明日のネタ。

ネタとベタの境界は浮動する。

スマホの背後の無数の目を意識すれば、人間はできるだけネタにならないように行動するだろう。誰によるものでもない「統制と管理」が成立するのだろう。

ネタとベタの世界には、一般的な情報公開の原則はない。ネタとして認定されればすべてが開示される世界。

私たちはすごい世界に生きているのだ。

(26)再解釈 Ⅰ版本文 パラグラフ6-3 井上・崎山両氏の第2論文に思うこと

井上・崎山両氏の第2論文に思うこと

 

先に触れた、井上・崎山両氏の一連の論文に関して思うことがある。両氏の論文は本当にすごいのだ。新たな論点を提示し、その論点で徹底的に解釈していく姿勢は爽快感さえ覚える。だが、どうしてもなじめないものが存在するのだ。

特に第2論文に関してだ。

両氏は「1 クォーターの小麦」が「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」で表現される事態に関して次のように述べている。

 

「まず初版であるが、第二版・フランス語版と比べて表現に論理上の難点がある。なぜなら、『それ』=『1 クォーターの小麦の交換価値』は種々様々の交換価値としてある諸表現様式とは区別されなければならない、と言うのであるが、ここで例にあげられている種々の等置関係=諸表現形態から解るように、交換価値自体がある表現様式なのであるから、表現様式である交換価値がこれら種々の表現様式から区別されるものだというのは論理的に突き詰めが足らない言い方になってしまうからである。もちろんここでは、交換価値について『内的な、内在的な交換価値というものは、一つの形容矛盾であるように見える』として、交換価値なるものが単なる表現様式・現象形態としてあるのではなく、ある内容=内実としてある可能性をも残した上で上記の表現があるわけだが、にもかかわらず、表現様式から区別される表現様式、という叙述になってしまうことへの論理的な歯止めがなされてはいないのである。」

(商品語の〈場〉は人間語の世界とどのように異なっているか(2) 井上康・崎山政毅 立命館文学633号2013 P.103)

 

もちろん、両氏の主張はよくわかる。おっしゃる通り2版やフランス語版の叙述の方が、話の流れはすっきりする。「表現様式から区別される表現様式」というのも問題があると思う。しかし、それは我々が2版やフランス語版の内容を知っているからである。この論文の意図が初版、2版、フランス語版を比較して「商品語」によって描き出されるものを人間の言葉によって描き出されるものに対して浮き彫りにするというものだろうと思う。

そうではあるが、初版が出版された時点では、当然2版やフランス語版は存在していないのであり、マルクスはこの叙述の仕方で初版を出版したのである。すると、なぜマルクスはその叙述で問題がないと考えたのかが問題になるのだ。

それで、私はある表現様式が他の表現様式と区別されるための構造として、「交換関係の海」というどう考えてもマルクスらしからぬきわめて形式的な解釈をすることになったのだ。

両先生なら、もっと内実を伴った解釈ができるであろうに・・・。

やってもらえませんかね・・・。

(25)再解釈 Ⅰ版本文 パラグラフ6-2

再解釈 Ⅰ版本文 パラグラフ6-2

そして、ここではそれぞれの商品は同等であり、それぞれが「1クウォーターの小麦の交換価値」の役割をはたすことができる。このパラグラフが「例えば」ではじまって「1クウォーターの小麦の交換価値」をもちだしたのであるから、これが「x量の靴墨」で始まってもよかったはずだ。他の諸表現様式(x量の靴墨、y量の絹、z量の金)が特別な位置にたてるわけだ。

すると、このパラグラフで何が示されているのは、1クウォーターの小麦が他の商品と結びつくことで結節点(ハブ)になっているということ、そしてほかのどの商品でもこの結節点になれるということではないだろうか。図式的に示すと次のようになる。

だから、x量の靴墨、y量の絹、z量の金どうしの関係は、1クウォーターの小麦をハブとすることで理解できるとことになる。

結節点(ハブ)のイメージを明確にした図式は次のようになるだろう。

それぞれの商品の一つがハブになり、そのほかのものが「枝」になっている。これを「交換系」と呼ぶことにする。そしてこの関係が認められるならば、この図に現れていないほかの商品との関係を含めて考えると、次のような関係も可能であることがわかる。

左は商品7と商品6はそれぞれ二つのグループ交換系に存在しているように見えるが、商品1がハブである限り両者は商品1をハブとする商品系に属する。商品12がハブの場合はその商品系に属する。また、このような関係の仕方とは別に、右のように共通の商品を含まない様々なグループどうしがつながっていてもいいはずである。いずれにしても、このような商品のつながりを認めるならば、ある商品の背後には「交換関係の海」が広がっているといえる。

そして、この「交換関係の海」においては

商品の関係は、

a 関係を持たない、

b 枝どうしの直接的関係、

c 枝とハブの直接的関係、

d ハブを結節点とした枝の間接的関係、

のいずれかであると言える。さらに、そしてこれは重要なのだが、

同じ交換系においてのみ、任意の二つの商品の「枝同士の直接的関係」は可能である。

任意の二つの商品が「枝同士の直接的関係」である場合、両者は共通のハブを持つ。

隣接する二つの商品が同時にハブであることはない。

と言える。

 

ここでの交換に関しては、「同じ」とか「等しい」とか「等式」という概念を持ち込むことはできない。この章の最初からこのパラグラフまで、マルクスはgleich とかGleichungとかgleichsetzenなどの語を1回も使用していないからだ。

ここでの交換を等式とみなせないとなると、このパラグラフでは、「交換関係の海」=「関係の枠組み」が示され、その内実は次のパラグラフで一挙に示される、という展開になる。そしてこの「交換関係の海」という枠組みなしには、次のパラグラフの内容は成立しなくなる。このパラグラフを軽く扱うのはよろしくない気がする。「多くの商品の交換関係が存在する」という理解だけでは、次のパラグラフの「共通のもの」や「第三のもの」を支えるものがなくなるからだ。支えるものがなくなったら、ここから先の展開が終わってしまう。