資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

寄り道 Wissenschaft der Logik, Sein-Nichts-Werden冒頭確認①

やはり、inhaltslosとeinfachが気になるので、ヘーゲルの『論理学』(いわゆる『大論理学』本文冒頭Sein-Nichts-Werdenの展開を確認してみる。

Sein

①Sein, reines Sein, — ohne alle weitere Bestimmung. ②In seiner unbestimmten Unmittelbarkeit ist es nur sich selbst gleich, und auch nicht ungleich gegen anderes, hat keine Verschiedenheit innerhalb seiner, noch nach Aussen. ③Durch irgend eine Bestimmung oder Inhalt, der in ihm unterschieden, oder wodurch es als unterschieden von einem andern gesetzt würde, würde es nicht in seiner Reinheit festgehalten. ④Es ist die reine Unbestimmtheit und Leere. ⑤— Es ist nichts in ihm anzuschauen, wenn von Anschauen hier gesprochen werden kann; oder es ist nur diß reine, leere Anschauen selbst. ⑥Es ist eben so wenig etwas in ihm zu denken, oder es ist ebenso nur diß leere Denken. ⑦Das Sein, das unbestimmte Unmittelbare ist in der That Nichts, und nicht mehr noch weniger als Nichts.

 

①存在、純粋存在は、それ以上の規定を持たぬものである。②その無規定的な無媒介性において、それ(存在)はただ自分自身に等しく、そして他者に対して不等でもなく、それ自身の内部でいかなる差異性ももたず、また外的なものに対しても差異性をもたない。③何かある規定性、すなわち自分自身において区別するような内容によって、あるいは、他者と区別されるものとして措定されるようなものによって、それ(Sein)はその純粋性において保持されないだろう。④それは純粋な無規定性であり、空無なものである。⑤---直観するということがここで語られうるとすれば、その内には直観するべきものは何もないのである。すなわち、純粋で空無な直観そのものに過ぎない。⑥また、同様にその内には思惟すべきものもなく、また同様に空無な思惟でしかない。⑦存在、つまり無規定的で無媒介的なものは、実際には無であり、無以外のなにものでもない。

 

①②③文について…Seinとは何かみたいな話

Sein

1.Seinということ以外の規定性を持たない

2.無規定的な無媒介性において(ということは、この「無規定的な無媒介性」はSein  をあらわす言い方)自分自身と等しく、かつ他者と不等であるということもない。

3.それ自身のうちに差異性をもたない。かつ他者との差異性をもたない。

4.純粋性は規定性をもたぬことによって、つまり「自身の内部において区別を生じさ  せる内容」を持たないことによって保たれる。

 

うわぁっ、ヘーゲルだ! でもわかりにくい。

そこで何を言いたいのか考えてみる。

 

1と2の無規定性、無媒介性について次の例で考える。

「〇〇がある」、「△△がある」「□□がある」の「ある」がSeinです。ふつうは「何々」があるという仕方で、「ある」は規定されています。つまり「〇〇が」「△△が」「□□が」が「ある」を規定しているわけです。

このような規定を取り去ってみると「ある」だけが残ります。これが、何の規定も持たない「純粋な存在(reines Sein)」ということになります。それはただ「ある」だけということになります。

ここで「存在」は「存在そのもの」であり、最初の言い方にむりやり合わせれば、「存在がある」とでもいえるでしょう。このほとんど同語反復の状態において、存在は自分自身のもとにあるに過ぎないわけです。ですから、「自分自身と等しい」といわれるのでしょう。

そして純粋性は「規定のなさ」によって成立しており、この「規定」が自分自身がどのようなものかを示す「内容」なので、純粋存在は「内容をもたない」と言えます。

 

④⑤⑥⑦文について…Nichtsへの移行の話

1.存在は純粋な無規定性であり、空無なものである。

2.「直観する」「思惟する」ということで考えれば、直観するべきものも思惟すべきものもない。「直観する」は「空無な直観」、「思惟」は「空無な思惟」といえる。

3.無規定的で無媒介的な「存在Sein」は「無Nichts」そのものである。

 

存在が純粋な無規定性であるので、そこには「直観するべきもの」はなく、「思惟すべきもの」はないといえます。前の文で言うと「空無なもの」は直観することも思惟することもできないとうわけです。「無規定性って、結局何にもないってことでしょ。それじゃ無じゃないですか」というのがヘーゲルの論述の流れです。

 

あるもののあり方をつきつめていくと、まったく別のもののあり方であることになる。

これこそヘーゲルです!