資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

寄り道 Wissenschaft der Logik Sein-Nichts-Werden 冒頭確認②

Nichts

 

①Nichts, das reine Nichts; es ist einfache Gleichheit mit sich selbst, vollkommene Leerheit, Bestimmungs- und Inhaltslosigkeit; Ununterschiedenheit in ihm selbst. ②— Insofern Anschauen oder Denken hier erwähnt werden kann, so gilt es als ein Unterschied, ob etwas oder nichts angeschaut oder gedacht wird. ③Nichts Anschauen oder Denken hat also eine Bedeutung; Nichts ist in unserem Anschauen oder Denken; oder vielmehr es das leere Anschauen und Denken selbst; und dasselbe leere Anschauen oder Denken, als das reine Sein. ④— Nichts ist somit dieselbe Bestimmung oder vielmehr Bestimmungslosigkeit, und damit überhaupt dasselbe, was das reine Sein ist.

 

①無、純粋な無。それは自分自身との単一な同等性であり、完全な空無性、規定欠如性、内容欠如性、すなわち、それ自体における無区別性である。②---ここで、直観すること、思惟することに言及できる限りで、何かが直観されたり、思惟されたりしようとされまいと、ある区別があると思われるのである。③したがって、何ものも直観しないということ、あるいは何ものをも思惟しないということはひとつの意味を持っているのである。つまり、無は我々の直観することや思惟のうちにあるのである。あるいはむしろ、空無な直観することであり、空無な思惟自身なのである。そして純粋存在と同じ空無な直観すること、空無な思惟なのである。④--- したがっ、無は 同じ規定性であり、あるいはむしろ規定欠如性であり、またしたがって、純粋存在であるところのものと一般的に同じものである。

 

①文について…無とはなにかみたいな話

1.純粋無とは

(a)自分自身との単一的な(一的な)同等性である。

(b)完全な空無性、規定の欠如、内容の欠如である。

(c)それ自身における区別のなさである。

 

うわぁっ、やっぱりヘーゲルだ! それにしてもわかりにくい。

そこで、何を言いたいのか考えてみる。

 

ヘーゲルが示した「純粋無とはどんなものか」は存在と同じではないか。そんなことが許されるのか?

許されます!

「存在」がどういうものであるかを突き詰めていったら、存在そのものの在り方がそのまま「無」につながってしまうではないか、みたいな話がありましたが、その流れで言えば、「無とはどういうものか」に関してはすでに示されていることになります。

すると「存在」はそのまま「無」だったのですから、無について語る場合、どっちについて語っているのかわからないことになります。

ここできいてくるのが、anschauen(直観する、見る)、denken(思惟する、思考する、考える)だと思います。

 

②③文について

「直観すること」「思惟すること」が問題になる限り、その対象が直観されようがされまいが、思惟されようがされまいが、そこには区別がある。そして何物も直観しない(無を直観する)、とか何物も思惟しない(無を思惟する)ということは、ひとつの意味を持っている。

これでは、何がいいたのかよく分からない。

これはたぶん、

直観する(見る)⇒〇〇を直観する(〇〇を見る)

思惟する(考える)⇒△△を思惟する(△△を考える)

という精神の働きにおいては、「無」も「直観すること、思惟すること」の対象になっていることになる、という意味ではないだろうか。

するとヘーゲルの言うように、「無は我々の直観することや思惟のうちにある」ことになる。

ここからさらに、

「無を直観すること」は空無な直観といえるし、「無を思惟すること」は空無な思惟ということができるのだろう。

だから「無」は「存在」と同じものになるといえるわけです。

 

直観や思惟という精神の働きにおいてのみ存在や無が可能となる(しかも、ここは『論理学』の発端なのです!)という発想は、さすがにドイツ観念論です。

マルクスがⅡ版の後記で「ヘーゲルは頭で立ってる」みたいなことを言うはずです。

 

ほんとはWerdenまで確認するつもりだったのですが、寄り道が本道になりそうなので、とりあえず寄り道から引き返します。

Inhaltslosは「無規定性、諸規定のなさ」、einfachは「無媒介的に一つである」というイメージなのだということは確認できた。

本道に戻ろう。