「本道にもどる」などと言いながら、Werdenのところをちょっと眺めたら、本気で考え込んでしまった。ということでWerdenのはなしを少し。
Werden Einheit des Seins und Nichts.
①Das reine Sein und das reine Nichts ist dasselbe. ②Was die Wahrheit ist, ist weder das Sein, noch das Nichts, sondern daß das Sein in Nichts, und das Nichts in Sein, — nicht übergeht, —sondern übergegangen ist. ③Aber eben so sehr ist die Wahrheit nicht ihre Ununterschiedenheit, sondern daß sie absolut unterschieden sind, aber eben so unmittelbar jedes in seinem Gegentheil verschwindet. ④Ihre Wahrheit ist also diese Bewegung des unmittelbaren Verschwindens des einen in dem andern; das Werden; eine Bewegung, worin beide unterschieden sind, aber durch einen Unterschied, der sich eben so unmittelbar aufgelöst hat.
①純粋な存在と純粋な無は同一である。②真理であるところのものは、存在でも無でもなく、存在が無に、無が存在に---移行するのではなく、---移行してしまっていることなのである。③しかし、真理は、両者の無区別性というよりも、両者が絶対的に区別されながらも、それぞれがその反対のものへと同じように無媒介的に消滅してしまうということである。④したがって、その真理は、一方の他方における無媒介的な消滅の運動、すなわち生成なのであり、そしてそれは、両者がそこにおいて区別されるが、同様に無媒介的に解消してしまうような違い(区別性)によって区別されるというような運動なのである。
これは、どうしようもなくヘーゲルだわ。
このパラグラフは起きている事態をイメージしにくいですが、かなり重要だと思います。
①文で前の話をまとめています。
「純粋存在」と「純粋無」は同じものである、といっていますが、「純粋」であるというのは、「それ以外のものではあり得ない」くらいの意味だと思います。ですから「純粋存在」と「純粋無」は決定的に区別されるものだといえます。
それなのに、「同じ」なんですね。
この「同じ」がくせものです。これは「AはBとおなじである(A=B)」のように、A、Bそれぞれを独立したものとして関係させるような同一性では決してないと思います。
このことは②③④文でわかります。そしてそれぞれの文の主語がすべて「真理」であることに注意して確認してみます。
②文
事態の捉え方1
真理は、存在と無の双方が、互いに他方へ「移行するのではなく、移行してしまっている」ことだとヘーゲルは言ってますが、この「移行する」と「移行してしまっている」には注意をはらうべきでしょう。
「移行する」はあるものが別のものに「変化する」イメージ
「移行してしまっている」は、存在と取り扱おうとするとそれは無であり、無を取り扱おうとするとそれは存在である、というイメージ。一方が無媒介的に他方である、という事態とでも言うのでしょうか。両者の無媒介的な同一性という捉え方です。
③文
事態の捉え方2
真理は、存在と無の「無媒介的な同一性」という「区別の無さ」でなく、「一方が反対のものにおいて無媒介的に消失していること」であるといってますが、これは②文の「同一性」の事態を「一方のものの消失」ととらえ返しているといえます。
実はこれってすごいことを言っているのではないだろうか。
a「純粋存在」の場合、それが「純粋無」において消失している、これが真理である。
b「純粋無」の場合、それが「純粋存在」において消失している、これが真理である。
事態の捉え方2の主張では、「存在」の在り方も「無」の在り方もそれぞれ真理であるといことになると思うのだが、これは無謀な解釈なのだろうか。
④文
事態の捉え方3
真理は「一方の他方における消失の運動、すなわち生成である。」
「存在」と「無」のそれぞれの運動の全体が生成といえる、と言いたいのでしょう。
実はここからもっととんでもないことを考えていいのではないか。つまり、
存在と無と生成は、それぞれ運動の在り方として同じであり、かつ等しく真理である。これはまるで、「父と子と精霊」の三位一体ではないか!
などということを言ったら無謀なのかなあ。
いずれにしても、生成のところで、「無媒介的な同一性」と「無媒介的な他者における生成」が確認できてホッとした。
今度こそ、道を正して本道にもどる。