資本論を読むことになってしまった

分からないことだらけの、この何ともいえないモヤモヤ感は・・・。

「批判するならちゃんと勉強してください」という発言

ここ数か月にわたって、国内のいろいろな大学のリポジトリを利用して学術論文を読んでいる。これは、いま取りかかっている「資本論を読むぞ」の一環として、マルクスを批判する人の見解を知ることが目的である。

マルクスにおいて何が問題とされているのかを知りたければ、反マルクスの論文を読むのがもっとも手っ取り早いというわけだ。

ほんとに多くの人がマルクス批判の論文を書いている。嫌われ者だね、マルクスは。

論文の中身に関しては、「うわ、これは面白い」というものから、「だいじょうぶかな?」というものまで様々である。

個人的に最も好きな批判の方法は、資本論の論理展開を批判するもの。

九州にある国立のQ大の学会誌(『経済學研究』)に掲載された「マルクス価値論と論理分析---碧海純一教授のマルクス批判によせて---」(執筆者 刀田和夫氏)で言及されている碧海純一先生の批判がすばらしい。

 マルクスの労働価値説における「商品の価値とはその生産に投入された労働である」という基本命題は経験命題の要件を欠いているので「定義」であるにすぎず、そこから導出される「剰余価値」も実質上経験的に意味を持たない命題になる。この二つのものは資本論の展開の基本的な議論であるので、資本論そのものは経験的に意味をもたない議論に基づくことになる。

 この議論の進め方は「相手の論理の息の根を止めよう」とする気迫に満ちている。批判というのはこうでなくてはいけない。

でもこの論文は何かの本に掲載されているものらしくて、リポジトリでは読めないもの。読みたいけれど、今は我慢という状態である。この議論に論理的な問題がなければ、『資本論』は終わる。経験的に意味を持たない定義に基づく命題に関して、その真理性は経験的には保証されないからだ。真理性が保証されない事柄を正しいと思うことは、学術の世界ではなく信仰の世界でのみ可能である。

ずいぶん前の論文だ。しかも碧海純一先生もすでに亡くなっておられるらしい。残念なことだ。法哲学系の先生だったらしい。

逆に「大丈夫かっ!?」となったのは、関西にある私立D大の某先生が書かれたもの。

マルクスの労働価値説は「経験的に検証しがたい主張であるから、これを科学的に批判しようとすることは最初から無理である。」といって「諸家の批判をふまえ、それ(労働価値説)が経済学理論として妥当性のないものであることの理由を述べよう。」といったあと、”マルクスが間違っている点”を列挙していく。

この議論は批判に見えて、そうなっていない。論証がないからだ。

例えば、マルクス批判の論点として

 1.価値は労働ではなく効用である!

 2.マルクスは間違っている!

 3.今なら、ポイント5倍!

のどれを主張しても論証がなければ効果は同じ。ゼロである。

論証なき批判は、ただ、大きな声で叫んでいるだけに過ぎないと私は思っている。それに、「科学的に批判しようとすることは最初から無理である」といって議論を放棄したのでは、何のための論文だったのか・・・。

論証がなければ、「声の大きい人が勝つ」議論になるしかない。しかも、この先生は本気でマルクスを読んいない(徹底して読んでいない)ような気がする。批判するためには、徹底したテキスト読解が必要だと思うのだが・・・。

マルクスは「これでOK!」と思って資本論を出版したはずだから、可能な限り矛盾が出ないように、整合的に読み解くことが、マルクスの思考過程に最も近い読みのはずである。それをやった上で初めて批判が可能になると思う。

 

ずいぶん昔、「朝までなんとか・・・」というテレビ番組に、共産党の前の委員長、不破哲三さんが出た時、司会の田原総一朗さんが「企業の国有化はどうするんですか」と突っ込みを入れたら、「そんなものは、すでに綱領から削除して放棄しています! あなたねぇ、人を批判するならちゃんと勉強してくださいよ!」と逆突っ込みをくらって、言葉を失った後、話題をかえてほかの人に質問を始めたことがあった。

頑固で、残念な党だと思うが、不破さんの発言は正しい。

 

マルクス擁護派は、D大の先生の論文に対して何もしないだろう。「何か言ってるよ、しょうがないねぇ。」くらいで済ませるかもしれない。しかし、碧海先生の批判に対しては本気になって反論しなければならない。そうしなければ「マルクス終わり」なのだから。

本当の批判は、議論を終わらせるか、発展させるか、そのどちらかになるのだと思う。

 

批判とか擁護とか、そんなところまで行きつかずに、「分からないなー」と言いながら資本論を読んでいるのだから偉そうなことは言えないのだろうけれど、はるか昔、学生の頃にさんざん言われた「整合的な解釈」や「論証がないものは信じるな」というものがいまだに染みついていたのだと、あらためて思った次第である。